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海外研修が嫌で内定辞退した話

私はいつか海外に行きたいと思いつつも
その思いはさほど強くなかった。

 
まず、言葉の壁を感じた。
私は英語が得意ではなかったし、昔は日本人相手でも人見知りをした。

外国の文化やマナーは、日本と大幅に異なるから
自分の常識が通用しない場所に
英語ではないと太刀打ちできない場所に乗り込む自信がなかった。
治安や気候も心配だったし
何より、マナー違反で外国人を怒らせそうで怖かった。

私は乗り物酔いしやすいから、空港までバスや何かで移動し
飛行機で数時間移動というのもネックになった。
海外に着いて早々具合が悪くなったところで
一人で切り抜けられる自信がなかった。

 
だから、初海外は家族か親友とではないと行きたくなかった。
絶対的にケンカ別れしなさそうな、絶対的な私の味方とではないと行ってはいけないと思ったし
デビューするなら韓国だと思っていた。
近いし、辛い料理は美味しそうだし、美の国で気になっていた。

 
両親はバンバン海外旅行に行っていたのに
私どころか姉も、海外へはあまり興味がなかった。
理由は私と全く一緒だった。
気が合う姉妹だ。

姉は仕事で行ったハワイが初海外である。
研修だった。
だが、姉が行った海外はそれが初めてで、それが最後だった。

 
私は20歳の時に初海外旅行で台湾旅行に家族と行こうとしたが
ちょうど旅行の時は謎の体調不良が毎日続き
私はキャンセルをするしかなかった。

 
私が学校を卒業した頃には
祖父母の介護がある為、両親は海外旅行に行けなくなり
親友も私も仕事により連休が取りにくくなり
彼氏とも休みが合わず
なかなか海外旅行には行きにくい状態になり、海外デビューしないまま、今に至る。

 
 
だが、思い起こせば、海外デビューのチャンスは今までたくさんあった。

 
小学生の頃に通っていたそろばん塾では、三級以上の人にアメリカ短期留学制度があった。

高校はオーストラリアの学校と姉妹提携だかをしていて、交換留学&ホームステイ制度があった。

大学では、ドイツに心理学を学びに行く、短期留学制度があった。

専門学校では、ベトナムに短期留学制度があった。

 
 
私は中学校以外の学生時代に、常に短期留学のチャンスがあった。
母親は積極的で、そのたびに「お金なら出すから行けばいいのに。」と繰り返した。
留学や海外に憧れる人からしたら、私は非常に恵まれた位置にいた。
だが、怖くて行けなかった。

  
もしも私が小さい頃に海外デビューをして、海外に免役がついていたらまた違ったのかもしれない。
そろばん布教のためにアメリカに行ったり
心理学の本場のドイツに行くことは
確かにとても魅力的だった。

 
オーストラリアは、中学時代の先生が素晴らしさを語っていたし
父親も何度か行っていて、やはり素晴らしさを語っていた。
アボリジニーやエアーズロックは気になる。
親日家が多いのも良い。
海外デビューするなら、日本や日本人に優しい国がいい。

 
ベトナムは今まで特に興味はなかったが、だからこそ新しい世界に触れられるチャンスだっただろう。
 
だが、私は行かない選択をした。

 
 
私とは逆に、周りの友達は海外旅行や留学に興味があり
仲が良い子は海外旅行や留学を体験していた。
みんなは海外の素晴らしさを語っていたし
そんな友達の目はキラキラしていたが
私はやはり、それでも私は行きたい、とは思わなかった。

 
20歳で台湾旅行にデビューしていたら、また違ったのかもしれない。
パスポートを用意してからのキャンセルは悔しかった。
台湾ならば近いし、気候も日本に近いし、食事は美味しいらしいし、日本語OKな場所は多いし、親日家が多いし
海外初心者デビューしやすかった。

  
まぁだが、それが私の人生だ。
結局は、「人生で一度くらいは海外に行けたらいいな。」とぼんやり思いつつも
海外に行けない人生でも構わないとも本気で思っていた。
だからチャンスがあっても、動かなかったし、悔いはなかった。

連休があるならば、私は国内旅行に行きたい。
まだ行っていない県はたくさんあるのだから。

 
 
 
あれは、私が大学三年生の時だ。

大学院進学を諦めた私は、受験勉強から就活に切り替えた。
新卒向けの企業はたくさんたくさんあり、何がいいんだか、何が自分に向いているか分からず
片っ端からエントリーしていた。
忘れもしない、人生で初めて合同説明会で話をしたのが、くら寿司だった。
目当てのベネッセが、激混みブースだったからだ。

 
 
私は医療・教育・福祉分野に興味があり
仕事としては銀行事務も良いと思っていた。
公務員も捨てがたい。

 
あの頃、絶対的になりたい職業なんて私にはなかった。

 
有名企業のブランドで応募したり
医療・教育・福祉の分野だから応募したり
事務職だから応募した。

 
 
だが、私は落ちた。落ちて落ちて落ちまくった。
何十社に落ちたか分からないくらい、落ちた。

書類選考で落ち
面接まで通ったと思ったら落ち
最終面接でまた落ちた。

 
当時は、強いて言えば地元の銀行が第一志望で、面接で落ちた時は非常にガッカリした。
周りの友達は既に何社からか内定はもらっていたし
高校時代は三人グループだったのだが
私の第一志望の銀行に
私以外の二人は受かったのだから。
情けなくて、「その銀行が私も本命だった。」なんて
私は口が裂けても言えなかった。

 
後に、その銀行はなかなかにブラックで
友達は入社して早々に悲惨な辞め方をしていたし
後に知り合った別の友達も、そちらに入社して早々に悲惨な辞め方をしていた。

 
銀行事務は安定していて、憧れの仕事のイメージだった。
だけど友達の話は、そんな私のイメージを根底から覆した。

 
だから、人生は分からない。
何が正しいか幸せかなんて、早い者勝ちではないし
いつどうなるか分からない。

 
 
就活していた当時、私は自信をなくしていた。

ひたすらに内定がもらえない。
彼氏はできたことがなかったし
企業にもフラれっぱなしだったし
恋愛においても社会的にも、私は魅力がない人間だと思い知らされた。

大学四年の冬に初彼ができることを、この時の私はまだ知らない。

 
 
もがいて、もがいて、もがいていたあの頃
私は地元企業で有名なところは片っ端から受けた。
事務職じゃなかろうと
医療・教育・福祉の分野じゃなかろうと
私はとにかく内定がほしかった。

 
 
ある日、私は地元の某企業の最終面接まで辿りついた。

当日朝方まで、別社への履歴書を書いていた私は
目の下にクマはあるし
メイク道具一式を忘れたしで
最悪な状態だった。

企業に対して失礼にもほどがある。

 
まぁ本命じゃないしな………どうせまた落ちるに決まってるよ、と思った企業で
私はまさかの内定をいただけた。
就活時はスーツやメイクがマストではないのか。
私は本当に驚いた。

 
 
今まで、「大学で心理学を学んだ方がどうしてうちみたいに、全然関係ないところを志望されたのですか?」と、散々イヤミを言われてきた。

 
【心理職は大学院進学しないとなれない上に非常勤しかないし
今度、公務員試験上級(心理職)は受ける予定ですが
採用人数1~2名に対して倍率50倍なんですが…】

 
とも言えず
私は適当に話をしたり、誤魔化していた。

 
 
 
私が内定をもらえたところは販売業で、心理学は全く関係ない。

だが、「心理学を学んでいた真咲さんだからこそ、お客様に寄り添えるのではないか。ゆくゆくは人事の方で活躍していただきたい。」と採用してくれた方が言ってくれて
私は「ありがとうございます。」「ありがとうございます。」とひたすらに言い続けた。

  
地元で名前を知らない人はいない程の大手だが
実際に私はそのお店に客として行ったこともなく
興味のある仕事だったわけではないが
ひとまず内定をもらえたことに喜びを隠せなかった。
初めて内定をもらえた喜びは今でも忘れられないし
内定をもらってから、そのお店に行くようになったのだから
縁とは不思議である。

 

大学の就職課からは、内定を一つキープした状態で本命の会社を受けるように言われていた。
もしも内定を二つもらっても、本命の会社試験を控えている場合は
内定を一つ蹴るように言われた。基本はあくまで、内定を一つキープだと。

 
 
だから私は、初めての内定を手に、就活を続けていた。
だけど、内定先の研修には顔を出していた。

私「Aちゃん………!」

 
A「ともかちゃん!?」

  
私は内定者研修で、中学時代のクラスメートに再会した。世間は狭い。
Aちゃんはこの会社が本命ではなかったが、内定をもらえたので就活は終わりにし、ここで働くことを決めたらしい。

 
私は、まだ就活は終わりにしたくない。
内定をもらえた恩はあるけれど…………と感じていた時、資料を配られた。

 
【アメリカ新人研修】

  
のお知らせだ。
どうやら、内定者全員がアメリカに10日間も研修で行かなきゃいけないらしい。
私は内心ゾゾゾゾゾ………とした。嫌だ。行きたくない。

 
「いいじゃない。アメリカ行けて。」

 
母親は呑気だ。
私の嫌な気持ちは全く分からない。

 
 
私はアメリカ新人研修を聞いた瞬間に、内定を蹴ることを決めた。
冗談じゃない。
慣れない海外に仕事で慣れないメンバーと10日間も行くなんて、絶対に嫌だ。

ちょうどその頃、塾でも内定をもらえた為
私は就職課に行ったが
そこで言われたことは意外なものだった。

 
就職課「塾は夜中心の仕事だから、若い内はいいけど、体壊すし、友達と遊んだり、デートしたりできなくなるわよ。」

  
私「若い内はいいけど、かぁ………。」

 
就職課「ともかさんは長く働きたいんでしょ?なら、日勤の販売業の方がいいわよ。土日連休はなくても、平日休みだと映画館とか空いていたり、市役所とか雑用に行きやすくていいわよ。」

 
  
なるほど……と、思った。
一理あるな…………と、思った。

 
アメリカ短期留学が嫌だから、ブレずに内定一社目は蹴ったが、私は就職課の言葉が心に残った。

 
 
結局私は、内定は二社しかもらえなかった。

販売業と塾でしかもらえなかったのだ。

何十社と受けて
その販売業と塾は、働きたかった会社ベスト10には入っていなかった。

  
消去法で残った会社。
人気がない、魅力がない私を認めてくれた会社。

私の中では、そんな見方があった。

 
 
バイトで家庭教師をしていたし、生徒に勉強を教えること自体は好きだった。
だから塾の研修も楽しかったし、内定仲間の同期も優しかった。
高校時代のクラスメートも内定仲間だったし
塾の先生達は優しかったし
人間関係がどうだったということもない。

塾の内定がもらえ、内定条件として塾でバイトを始めても
バイト自体は楽しかった。
楽しかったのだ。

 
 
だけど、私の心は言っていた。

【これでいいの?】

ずっと内なる声はあった。

 
 
私はまだ、諦めてはいなかった。

 
 
福祉の就活は業界一、遅い。
新卒採用をするのはよほどの大手だし、大抵の施設が誰かが辞めたら補充する形だ。

我が県の合同福祉面接会は、大学四年生の冬にあった。

 
【塾でこのまま働いていいのか?】と迷いがあった私は
福祉面接会に参加した。
福祉施設で内定がもらえたら、塾の内定を蹴るつもりだった。
福祉施設なら、日勤の仕事がある。

 
私はそこで、少し気になる仕事を見つけた為
施設で面接を受けたわけだが
そこが抑圧面接というか、ひどい場所だった。

 
後に社会人になってから知ったのが
そこは地元でも評判が悪い施設で有名で
職員からも利用者からも保護者からも
研修で知り合った他施設の職員からさえも
評判が悪かった。

  
私は笑ってしまった。
一人もその施設を評価していなかった。 
していないどころか
複数人が私にわざわざ言ってくるくらいなのだから
相当なのだろう。

 
「学校で福祉の勉強もしたことがない人が応募するほど、福祉の世界は甘くない。仕事を舐めないでください。」

 
面接ではガンガン責められ、結果を見るまでもなく、面接で私は不合格だった。
今まで福祉の企業自体は試験を受けていたが
福祉施設の面接自体は初めてだった。

  
 
私は非常に落ち込んだ。

施設の場所は分かりにくいし、駐車場も分かりにくいし
なんとか辿りつけば、玄関先から態度は悪いし
面接では手厳しいことを言われ
私は福祉職に就く自信をなくした。
合同面接会で、他にもいくつかの施設で気になる場所があったが
受ける気が全くしなかった。

 
福祉の学校で勉強してないくせに、か……

 
 
その言葉は私の中に残り、私は自宅に帰ってから、パソコンを開いた。
福祉の専門学校がどこにあるのか、費用はいくらか、何の資格がとれるのかを調べ、カタログを片っ端から取り寄せた。

   
 
私は卒論が終わり次第、専門学校の見学に行った。
まだ入学試験は受けられるという。

 
もともと、親は大学院進学を許可していた。
だから専門学校進学も、あっさり許可はされた。

  
「大学院進学しても、正職員の仕事はない。でも、福祉の専門学校なら、確実に資格は取れるし、食いっぱぐれはない。仕事に一生困らない。

周りの友達も、大学卒業後に専門に入り直すらしい。

教授が言ってた。心理学を大学で学んだ人は、福祉の現場で重宝されるって。仕事に活かせるって。

だからお願い!専門学校に行かせて!!」

 
 
親や友達や就職課から、「まずは就職してみて、それでも福祉職に就きたいなら福祉の専門学校に入ったら?」と言われなくもなかったが
私は福祉の専門学校を見学して、気持ちは固まってしまった。

 
福祉の専門学校で学ぶ。
そして力をつけた上で、施設に就職する。

私はそう、揺るぎがなかった。

  
 
皮肉なことに、面接でコテンパンにされたから
私は悪評高い施設で働くことはなかったし
福祉の専門学校に入り
そして第一志望施設で11年働くことができた。

 
専門学校の合格通知が届き、塾の内定を蹴ったのは
卒業式までカウントダウンの時だった。

 
 
福祉の専門学校は黒歴史というか
あまりいい学校や学校生活とは言えなかったし
人間関係には苦労したが 
その専門学校で得た知識や資格が役立った。
就職にも繋がった。

だから、感謝をしている。

 
 
 
 
今年の春、退職をして、再び仕事を探すようになり
私は大学三年生の頃を思い出す。

自分が何をやりたくて、何が向いていて
こんな自分を選んでくれるところがどこか分からなくて
ひたすらにもがいていたあの頃。

  
 
あの頃と異なり、私には経験年数も資格もあり
引く手あまたな状況だ。
福祉職はつくづく、人手不足なのだと痛感する。

 
よく言えばこだわりが強く、悪く言えばワガママな私は
学校進学や就職のたびに、こうして迷い迷ってきた。
妥協ができなかった。
「まぁいいや。」では済ませられなかった。
自分の将来や未来がかかっていると思うと慎重になった。

 
友達が「何がやりたいではなく、何はやりたくないかを書き出して、やりたくない仕事がある施設は消去法で消していけばいい。」とアドバイスをくれた。

  
転職活動を半年以上続けてきて
私は自分の譲れないものや優先事項が分かってきた。

 
やりたい!と思う仕事はあっても
資格が足りなかったり
遠方過ぎたり
採用試験で落ちたり

 
そうかと思えば
合同面接会や施設見学会に行くと「うちで働きませんか?管理者になってください。」とすぐに言われたりで

 
私は何が何だか分からなくなっていく。

 
 
貯金がまだあるとは言え、そろそろ転職したい。
いや、道を定めたい。
目標や夢に向かって、真っ直ぐに進みたいのだ。
未来が見えないことは、たまらなく不安なのだ。

 
転職をするか。
婚活をするか。
はたまた資格取得するか。
もしくは、引き続き様子を見て転職活動を続けるか。

 
どうしたらいいか、どうしたらいいのかと
私は毎日自問自答している。
答えさえ見つかれば、後は迷いなく真っ直ぐなのに
私はその答えを見つかるまで
あちこち手を出し、寄り道をし
ひたすらに自分の心と向き合っている。

 
 
未来は誰にも分からない。

大学生の就活時期のように、後から振り返れば、もがいていた一つ一つの汗や気持ちが道に繋がっていると分かるのだ。

 
 
いつか…そう、例えば来年や三年後に2020年を振り返った時
これらのもがいていた日々が今の幸せに繋がったと
心から思えたらいい。

まだ終わってはいないが
来年こそは、これだ!と思う気持ちを見つけ、道を歩いていきたい。

 

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