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ソメイヨシノが創った『桜の国』日本

こちらも合わせて読んでいただけたらと思います。

4月。

一斉に咲き、一週間足らずで散っていく桜の下で繰り広げられる出会いと別れ。

桜の花を見ながら

「嗚呼、日本は桜の国だなぁ」

としみじみと実感する私たちは、この光景は大昔から繰り広げられてきたと思っていますよね。


しかし

日本は昔『桜の国』ではありませんでした。


「えっ?」


と思った方がほとんどだと思います。


明治期まで日本は

『松の国』

であり

『梅の国』

でもあり

『桜の国』


でもあったのでした。


それを、ただ一つの『桜の国』へと変えていったのが

『ソメイヨシノ』

だったのです。


ソメイヨシノ


江戸末期から明治半ばまで園芸業の一大拠点であった染井村(現・東京都豊島区駒込)で作られ「吉野桜」の名前で売り出されたソメイヨシノ(1900年(明治33年)「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名)は、一本の源木を元に接つ木と挿し木のくり返しで数を増やしていった、

いわゆるクローン桜です。

ですから、どこのソメイヨシノも同じ時期に一斉に開花するので、桜の開花宣言に使われます。

このソメイヨシノは他の桜の花にない特色が色々とあります。

まず、ソメイヨシノの最大の特徴は、葉が出る前に花が咲く事。

だから、御存知のように花が咲くと並木などでは視界が全て花で満たされます。

また、ソメイヨシノは他の桜より成長が早く10年くらいで花を咲かせます。

そして、このソメイヨシノは、和歌などで詠まれるけれど、ほとんどの人が見た事がない「吉野の桜」に抱いていたイメージと一致しました。

値段も手頃で、見栄えがよく、成長も早く

そして、何よりも目新しかったソメイヨシノは、

堤防修築、公園造営、観光地整備などの景観整備事業や、日清・日露戦争の出征や勝利記念、戦没者追悼のイベントの時に次々と植えられていき


今や日本の桜の


7〜8割


ソメイヨシノで覆われていると、いわれています。

先に、日清・日露戦争の出征や勝利記念、戦没者追悼のイベントで植えられていったと書きましたが、

その当時の戦争は、まだ勝てば賠償金がもらえる国家事業という側面があり、

桜に『死』や『自己犠牲』と結びつけていませんでした。


毎年同じ時期に一斉に開花する均質な桜の花。

このソメイヨシノが浸透する前は、

地方、地域毎で愛でられていた様々な桜。

梅と対比して語られてきた美しさ


として語られていましたが、ソメイヨシノの浸透と共に

桜の多様性が、ただ一つの桜らしさへと変わり

同じ桜が咲く国土

という感覚が深まっていき。

一つの桜が、

ただ一つの日本らしさ=桜だけが日本を代表する花木

になっていったのでした。

そして、これにより桜を語る時にナショナリティと絡めたり、精神論と結びつけて語られたりするようになったのでした。


ソメイヨシノの誕生が日本を大きく変えたとは驚きですね。

この事を除いても、太古から桜は愛されてきて、詠まれたり語られてきたのは日本人にとって、桜はそれほど魅力的だったからでしょね。

まぁ、桜にとっちゃ、人間達の色々な思惑とかには全く無関心でしょうけど。

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参考資料・サイト

『 花見と桜』
白幡洋三郎著 PHP新書

『桜が創った「日本」』
佐藤俊樹著 岩波新書


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