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#94 愛を、探しに行きます。

 急に身辺まわりがバタバタとしている。

 わたしはもともと今の会社で、面接の時に海外との関わりたくさんありますよ! という誘いに興味を惹かれて入社をした。振り返ると、なんとも浅はかというか、短絡的な考えで自分がほとほと嫌になるが、まあ「海外との関わり」なんて、体のいい誘い文句でペーペーの新人がすぐに行けるものでもなく、その後一番海外から縁遠い部署に配属されて早数年。

 ひょんなことから部署移動した先ではトレーナーとしての仕事を任され、ついに念願の海外出張が明日へと迫っている。当然ながら、仕事であるので決して観光気分で行くものではない。現にここ数週間は仕事の準備で慌ただしく、そんなお気楽気分で物事を考えている時間もなかったのだ。

 とは言いつつも──。それがようやっと出発目前になり浮き足立っている。ワクワク、ワクワク。ようやくエンジンがかかってきたようだ。一週間くらいの短期出張で、場所は香港とセブであるが、ようやくコロナも治った今かつて自分が心躍らせることのできた場所に辿り着こうとしている。

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 今年になってコロナも落ち着いたせいか、これまで規制されていたたくさんの物事がめでたく解禁となっている。最初は電車の中でマスクを外す人を見ることに恐怖を感じていて、違和感しかなかったのに、それから数ヶ月経って「マスクをしないこと」がスタンダードになると、人の慣れとは恐ろしいもので、マスクをしている人を見ることに逆に違和感を感じるようになる。

 これはきっと、今までの世界のあちこちで行われてきたことなのだろう。時代とシチュエーションが異なれば、それが正義にもなるし悪にもなる。人はできる限りエネルギーを使わずに省エネに生きるために、スタンダードは何であるかを模索して、それからすぐさま順応しようとする。恐らく、人間の本能というべき能力かもしれない。きちんと、この世界で生き抜くために。

 わたしの住んでいる場所でも、駅まわりで大々的なお祭りがちょうど今2日間にわたって行われている。わたしはうっかりそのことを忘れていて、歩いて図書館に向かう途中、異様な光景を目にするのである。

 いつもであれば、道には多くて数人程度の人たちがのんびりと歩いているはずなのに、昨日と今日に限ってはどこにこんな人がいるんだというくらい、あちらこちらにいるのである。数人の単位ではない、下手したら何千人という人たちがおしくらまんじゅうをしているではないか。

 ひえぇ! わたしが住んでいる場所にこれほどの人たちがいたとは。知らなかった。閑散としすぎて心配なくらいだったのに、こんなふうにみんなきちんと、今日この日を迎えるまでに生きていたんだね。老若男女、中には明らかに日本の国籍ではない人たちもいる。もちろんいまだに伝染病は怖いが、でもなんとなく自分の中で懐かしさが込み上げた。

 橋の欄干からは、車が通れなくなった道路の上で豪華な神輿が何台も何台も、威勢のいい声を上げながら通り過ぎていく。その光景を見て、嬉しさが込み上げると同時に一抹の寂しさが頭をよぎる。嬉しさはもう本当に数年前のマスクをつけない日常が戻ってきたんだという気持ち、寂しさは以前ほどには気分が高揚していない自分がいることに気がついてしまったから。

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 昔はあんなに、夏が待ち遠しくて仕方なかったのに。

 ジージーと鈍く唸る電動機の音、ぼんやりと灯る提灯や屋台の光、香ばしさや甘さが混じった食べ物の匂い。五感の全てを刺激して、隣には、気になっている人の存在が近くにいて。あの時のときめきというものを、今ではほぼその片鱗さえも感じることができていない自分がいる事実に慄く。

 なんで、昔みたいに感じることができなくなってしまったんだろう。神輿をえっちらおっちらと、たぎる情熱と掛け声で率いる人たちをぼんやりと眺めながら、三つの原因を考える。

 一つには、慣れだ。ある程度生きていくと、そのうちに経験として蓄積されて、これまた順応していくことになる。だから、いちいち気持ちを昂らせていたらきりがなくなる。脳の処理もより効率的な反応を重視する。コロナでだいぶ月日が流れたものの、過去経験したことは詰まるところ自分の記憶の引き出しの中にきっちりとインプットされているのだ。

 二つ目には、阻害要因があること。歳を重ねるにつれて、これも経験によって様々なことがわかるようになった。同時に、以前の学生時代の時と比べると自分がこれから生きていく先の未来を考えるようになる。それは、間違った方向へ進まないための防御線でもあるが、それに考えを囚われてしまうということでもある。

「明日の仕事、うまくいくだろうか」「家計が厳しいからあまり使いすぎないようにしよう」。そうした懸念点に心を奪われ、身動きが取れなくなってしまう。

 そして、三つ目は自分が今、一人で歩いているということである。もともといつも一緒に遊ぶ友人を誘ったのだが、「混んでいるからイヤよ」とすげなく断られ、それから一緒に行ってくれるパートナーも今いるわけではないので、ただ一人で歩いているのだ。

 かつて胸が高揚した時の状況と俯瞰して比べた時に以上のような相違点があるのである。大人って、嫌だ。いや、決して大人になること自体は悪いことだとは思っていない。大人になるにつれて思慮分別がよりつくようになるし、稼げるお金だって以前とは比べ物にならないくらい増えたはずなのに。

 その分、いろんなことに囚われる。足枷のように。

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 愛も、そうしたたくさんの足枷の末に、きちんと形にするにはきっと時間がかかる。

 年齢という幾つもの荒波を超えて、わたし達はちょっとやそっとの嵐に負けないくらいの強さを身につけたはずなのに。その分、波を超えた時に刻まれる楔によって、道を時に見誤るのだ。

 相手の持つ条件カードを並べて、ああでもないこうでもない。自分の航海を遮る人は、わたしの船のクルーにはできません。今は多種多様で、様々な個性が認められる世の中のはずなのに、いやむしろそうした様々な個性があるからこそ、自分のそばに寄り添う存在、ピタリと自分に正しくハマるピースを、御伽話のように、シンデレラのガラスの靴のように探している。

*

 この間、結婚した友人に「結婚生活はどう?」と聞いたところ、

「結婚なんてさ、諦めと妥協の繰り返しよ」と彼女は答えた。

 最初はね、お互い気を遣っているんだけどさ、だんだん自分と合わない価値観のようなものが見えてくるの。でね、気がつくの。結局運命の人がいると信じて、パートナーを探していたけど、そんなもの絶対に存在しないんだって。いるのは、運命というものではなくて、自分がいかに相手の存在を自分の正しさのギリギリの基準に当てはめるかだって。

「そこに愛はあるの?」

「あるよ。まあ、どちらかというと打算的な愛だけどね」

 彼女は、君は某金融リースのCMみたいなこと言うねと軽く笑い、それから目の前にあるクリームソーダを音を立てずに啜った。みるみるうちにシュワシュワとした緑色の液体が彼女の口の中へと消えていく。

 最近、歳が歳ということもあって、結婚というものがより現実味を帯びてきた、というか重しになってきた。周りがどんどん結婚していって、気がついたらわたしはポツンと小島に取り残されていて、いやいやそもそも「結婚する」ことが正しいことなんだっけというのが自分の中でモクモクモクモクと煙のようになって立ち上がってきている。

「そうか、いろんな愛があるね」

「まあ愛ってさ、難しいよね。結婚する前は旦那が仕事で忙しくしている時に気遣うことが愛だと思ってたけど。でも子供が産まれると、忙しいといって家事の一つも手伝ってくれない旦那にはたまに軽ーく殺意、芽生えちゃうけどね」

 あははと笑って、彼女はくらくらと可愛らしく揺れている。

 ぐるぐるぐるぐると、「愛」の存在が回り巡っていた。結婚したからといって愛は持続するわけではないし、結婚しなくても愛は芽生えるし、たぶんその時その状況に応じて愛の姿形は変わる。愛の定義も、もしかすると昔とは変わってきているのかもしれない。家族と愛はいつの時でも正しく結びつくものでもないし、打算的だからといって愛はないとも言い切れないし。

 でも、たぶんたとえば誰かと一緒にいて、あーでもないこーでもないと意見を交わしながら、なんとなく相手のことを思いやっている、これが一つの愛の定義の究極系なんではないかなと、友人と話をしているうちに思った。


 最近皆さんの記事を拝読する機会がなくヒーヒー言っておりました。残り数回になってきて、自分の中でこれについて書きたい、というのがぼちぼち固まってきました一方で、皆さんの中でも何か愛について語りたい! というかたいらっしゃったら教えてください。


故にわたしは真摯に愛を語る

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