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【知られざるアーティストの記憶】第78話 マリの自転車とシャンソン

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第11章 決断

 第78話 マリの自転車とシャンソン

マリは自分の自転車を、普段はカバーをかけて自宅の壁際に沿わせて停めていた。しかしその日は、あとでまた使う予定があったのか、片づけるのを横着して塀の外側に停めたままにしていた。それが強風にあおられて倒れていたらしい。家の前の道路は車通りも少なく、道幅も狭くはなかったが、その道の端に横たわって歩道を塞いでいた。
「さっき自転車が倒れていたから、直しておいたよ。」
と彼に言われた。
「え、そうだった?それはどうもありがとう。」
「旦那さんがいたから、話しておいた。」

彼は普段、ほとんどマリの家のほうに来ることはなかった。しかし、さっきは居なかったはずなのに、突然湧いたようにそこに居たり、居るなと思ったらふと消えたり、黙って倒れた自転車を直していたりするようなところがあった。最近は彼もまたマリの家を見やる癖がついているから、倒れた自転車に気がついて飛んできただろうことが、容易に想像できた。

以前、マリの家の可燃ごみがカラスの被害に遭ったときにも彼は飛んできた。
「私が片づけようとしたら、ちょうど回収業者が来たから、片づけるように頼んどいたよ。カップラーメンの容器とか卵の殻とかが散らばってたよ。」
と報告を受けて、マリはちょっと恥ずかしかった。マリがカラス除けのネットを買って来て、重しの石を探していると、彼は庭に余っていた煉瓦を二つくれた。

冬の初めには、マリが朝の気功から帰ってくると、彼の家の前で雨に濡れた落ち葉に滑って転倒したお母さんの自転車を起こすのを手伝っていた。そのさりげなく親身な様子からも、彼は困った人や事態を見かけると、いち早く駆け付ける行動力と瞬発力を持ち合わせていることをマリは知っていた。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』より


家に帰ると、夫が形相を変えてまくしたてた。
「おい、さっきマリの自転車が倒れていたって、なんかワダさんが来て自転車を持って立ってたぞ。」
「ああ、倒れていたから直しといたって言ってたけど。」
「俺にもそう言ってたよ。でもなんか、やつの動きが怪しかったぞ。ぶつぶつ言いながらそそくさ帰って行ったよ。ほんとはあの親父が倒したんじゃないの?」

(オヤジィ?あの人のどこがオヤジなのよ。)
とマリは心の中で大いに反発した。しかし、イクミがマリに言っていたことと、夫が受けた印象がなぜこんなにも食い違うのか不可解であった。夫はイクミに対して「怪しい人」というレッテルを貼り、不信感を募らせてしまったようである。このように彼の行動は、夫も含めた一般人から見ると時に風変わりで挙動不審に見え、場合によっては誤解されてしまうこともあるのだなと思った。

そういえば彼は、マリもよく知る街中の手芸店で痴漢と間違えられたことがあると、可笑しそうにマリに話したこともあった。一人の客のおばさんが、
「お尻を触られた!」
と突然騒ぎ出したそうだ。彼は冷静に、
「それじゃあ、警察に行きましょうか?」
と言ったが、その場での店主との話し合いの結果、しばらくその店を出入り禁止にさせられたという。彼のミシンを使った創作品や、遺されたたくさんのハギレや糸を見た者にとっては、彼がその手芸店の常連であったことはごく自然なことであるが、彼を知らない者から見ると、平日の昼間に手芸店をうろうろする男なんてそれだけでじゅうぶん怪しいのであろう。このエピソードは可笑しくもあり、彼が世間に理解されない現実の物悲しさも伴ってマリに記憶されている。

「あら、そう?」
マリは夫に対して彼の弁明をすることはせずに、軽くその場を受け流した。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・27


「ねえ、昨日私ね、とっても久しぶりに都会に出かけて夜遊びしてきたよ。」
マリは彼に無邪気にそう切り出した。2022年1月21日、マリは月に1回習っているシャンソンの先生が出演するコンサートに出かけた。コロナの流行からすっかり遠のいていた都会の街へ、たまには行っておいでと夫が快く送り出してくれた。先生が2曲を歌われたほか、マリが前から大好きな歌手・かいやま由起や初めて観た大御所歌手・瀬間千恵らの圧倒的な表現力に心奪われた。そのことを彼にも伝えたかったのだ。

「え、都会に?何をしに行ってきたの?」
マリが待ってましたとばかりに語り始めようとすると、彼はすぐさま、
「いや、やっぱりいいです。人がどこへ何をしに出かけようとその人の自由だから。」
と言った。その言葉には、寂しさや、突き放すようなエネルギーは特に感じられず、むしろ彼がそれほど自立した人であることの表れであるように思えた。彼はマリのことを束縛したりコントロールしたりしない、ということに、安心とリスペクトの念を覚えたのだ。
「ああ、そう?」
と言葉を飲み込んだマリは、そんなわけで気分を害してはいなかったが、伝えたいという情熱をすっかりなくしてしまった。マリという女の情熱の発露の一つが歌であることは、このとき一度言葉を飲み込んだだけで、その後は彼に伝える機会を永遠に失った。マリは自らの歌う姿を、彼に見せることが叶わなかった。

2022年1月23日の夜、夫は久しぶりにマリを寝床に誘った。夫に対して普段は気の強かったマリは、寝床に誘われるときには基本的に従順であったが、このときは胸につかえているものがマリの身動きの自由を奪った。マリは夫の布団に滑り込む代わりに、
「・・・・・・ねえ、おとう。」
と話しかけた。
「なあに?」
夫はマリがこれから話そうとしていることが、夫婦にとってとても重大であることを察知している様子で、静かな声で返答し、神妙にマリの次の言葉を待った。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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