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『灼ける』(掌編小説)


 どこかの工場。錆びて赤黒い柱や梁が縦横無尽に駆け回るそこに、大量の海水が流れ込んでくる。

 逃げなくては。

 そう思って開け放たれた扉を目指し駆けていくが、足はねっとりとしたスライムのような海水に足を取られ、そうこうしているうちに無情にも扉は閉じる。
 段々と上昇する水位に比例するかのように、わたしの呼吸は荒く、熱くなっていく。

 登れ、登れ!

 脳内に響く誰のものかも分からないその言葉に従って、わたしは必死に海水に揉まれ続ける。なんとか顔を水面に出して息を吸う。
 でもいつも、最後には屋根まで達した海水に喉を灼かれる様にして、わたしはその苦しさに目を覚ますのだ。
 跡に残るのはわたしではない、でもわたしに親しい誰かが死んだという漠然とした空虚さだけ。

 こんな夢を見るようになって、どれだけの日々が経っただろうか。

 目を覚ましたわたしは大抵涙を流している。そして喉は、実際に息を止めていたのか火傷を負ったかのように熱く、痛い。
 この痛みを我慢できるようになったのは、恐らくこの夢を見始めて10日と少しが経った頃だったはずだ。
 ベッドの脇にいつもグラス一杯の水を置いていて、それをまず飲み干すのが最近の習慣になっていた。

 会社に行くためにシャツの袖に腕を通しながら、わたしはいつもあの夢が何を意味しているのかを考えている。
 所詮はわたしの妄想。でもじゃあその妄想はどこから来ているのだろうか。
 自慢じゃないが、わたしには小説や漫画をかくことはできないし、そもそもフィクションにはほとんど触れない生活を送ってきた。眉唾だが夢占いとやらで調べてみようか。

 そこまで考えて、そうは言ってもわたしの薄給をそんなことに浪費するのはもったいない。
 そう決定づけるところまで、段々と習慣化されてきた。

 習慣化されている。つまり、毎日同じ答えを出しているにも関わらず毎日同じことを考えているのは、多分わたしが不安だからなんだと思う。
 この不安はそして、あの夢を毎晩見てしまうことに対する不安だけではないのだろう。

 着替えを終えて外に出ると、いつの間にか梅雨の時期が来ていた。
 水の匂いに思わず夢を思い出す。外に出たくないと全身が拒否していたが、もう外に出ないと会社に間に合わなくなってしまう時間だった。

 傘をさす人々の間を縫うように急ぎ足で駅に向かい、なんとか目的の電車に乗る。
 こういう日はツイていないもので、わたしが乗った次の駅で乗車してきた男が、部下らしい青年を叱っていた。
 湿気で窓の曇った満員電車の中にその男の棘ついた声が、じっとりと広がっていく。

 説教というのは気持ちがいいらしい。
 特にそれを、大勢の人前で行うときには。

 自分の優位性を示している気分になれるからだろう。周囲の不愉快なんてものはお構いなしに、男の表情は心なしか、段々と恍惚としたものに変わっていくようだった。

「それっておかしくないですか?」

 俄かに青年が口を開いた。
 男はもちろん、わたしを含めた周囲の人まで驚いているのが分かる。

「だってそれは、先輩がいつもやってるってだけですよね? 論理的じゃないし、そもそもやる意味がない。もしきちんとした理由があるなら従いますけど、先輩の個人的な感情論で自分の仕事が増えることには納得できません」

 男はそれっきり黙ってしまった。
 青年はもしかしてわたしに向かって今の言葉を言っていたのではないか。
 わたしは彼が2駅先で降りるまで、ずっと彼から目を離すことができなかった。





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