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真の自由とは

もしも、あなたが真の自由の元に居たなら、、、

人々が自由意志で個々の考えで行動している世界を想像してください。
その世界ではきっと、564合いや略奪、強姦などあらゆる犯罪が起こるはずです。
すると、安寧のために必ず思想や道徳を説く人間が現れます。それが宗教のようなものになってゆくでしょう。
また、力によって安全を確保する者が現れます。それが武力になってゆくでしょう。
あなたも安心して暮らしたいと願い、それらの秩序を求めることでしょう。何故なら、1人または少数では守り切れるとは考えられないからです。

何かの力の元に集えば、自由だけを唱えるわけにはいかなくなります。

結果、真の自由というものが幻想であると簡単に答えが出るでしょう。
平和な考えに集い、ある種の集団を形成すれば、そこにはその考えに基づくルールが生まれます。
また、その中である種の力のある人間が頂点となった組織になることでしょう。
結局、どのような状況からでも三角形の社会を形成するのは、世の必定なのです。

野良犬のグループ同様です。彼等も自由に見えて三角形の中で暮らしています。

もちろん、極少人数で暮らすことは可能です。
しかし、それですらも三角形です。誰かが頂点に居ます。極小数で暮らすために行動したとき必ずリーダーは存在するでしょう。
つまり複数の人数になった瞬間に三角形の組織は始まってしまうのです。

何が言いたいのかといえば、何度も考察していることですが、生き方を変えようとか、物々交換が素晴らしいとか、みんな自給自足しようとか、そういう意見に安直に流されてはいけないということです。それらを発信する人は、マイルールの下にコミュニティを形成しており、既に三角形を始めているのです。
何とも言えない、矛盾というのか無慈悲というのか、ループしかないのです。

人は、それぞれに適性があります。
そしてそのそれぞれの人という生き物は、膨大な数にのぼります。世界人口で80億人時代です。
一瞬、冷静に平和な思考で80億人が自由に暮らせるか想像してみてください。そんなものは、理想だけの戯言だと思いませんか。

それともう一つ、現在の経済を形成してきた中で既に創り出されてしまったものがあります。それは、ボタン一つで大量破壊出来る兵器で、そういう時代であるということです。そんな中で少数で理想を求め暮らして逃げ隠れながら、継続出来るでしょうか。世界中の少数民族はどうなったでしょうか。社会逃避をして自由に暮らしているような発信をする人は多く居ます。確かに自立しミニマムな環境で継続した暮らしをしている人も居ます。しかし、それは社会全体から見れば取るに足らないほど小さく、放置されているだけなのです。そのため数年から数十年なら継続出来るということだけです。

社会の隅っこへ逃げ隠れて、果たして何千年も続けられるでしょうか。続けられたとして、何を成し得るのでしょうか。人間として生まれて何を目的とするかで変わりますが、生殖と永続が生物の単純な目的とはいえ、いかがなものでしょうか。

この回帰とも言うべき生き方のことは、ずっと違和感があり考え続けてきました。答えの求め方が間違っているような気がして、ずっと引っ掛かっていました。

その理想を社会的に実現したいのであれば、地域や国の頂点に立ち改革する必要があると思います。賛同者やその他から社会的に認められ、地域や国としてその生き方を実施するべきではないでしょうか。理想を目指し勝手に行うことは、それこそ自由です。しかし、他者へ広め今の社会へ批判や疑問を投げ付けるでは、宗教家などと変わらないのではないでしょうか。

まぁそういう思想で何かをやっているだけ、俺よりはマシなのでしょうけど、心から賛同できないわだかまりがあった考えているうちに、理由がこうして少しずつ解釈出来るようになってきて、この記載に繋がっています。

地域や国になろうとした時には、周辺とのバランスを保つことになります。つまり、政治ですね。そこを蔑ろにして、差別するような言葉を吐いても負け犬の遠吠え然です。最小限の給金を公言して立候補し、田畑をしながら政治をしようとは思わないのでしょうか。

遠吠えすることが、目的なのか、それが気持ち良いのでしょうか。

これで一周しましたが、真の自由とは、ある意味でですが孤独と自己責任です。勝手にする分には良いのでしょうけれど、思想や理想を正論だとして展開し、時に他者をやんわりとでもですが攻撃しているような方の姿を見ると、全くもって真の自由を手に入れているようには見えないし、むしろ世間を分断している一因であるようにも見え、自分の思想を布教する宗教者のようにも見え、とてもではないけれど崇高とは思えないという心境です。

俺の無宗教、無神教、スピ不要などの考えの根源は、それらとはもう少し違うように思っています。宗教家やスピ屋さんに喧嘩を売ったりすることはありません。好きにしてくださいというだけです。
また、有名人や周囲の人々の不倫などのような浮ついた話にも興味がありません。好きにしてくださいと思うだけです。そもそも社会全般、性的嗜好に点数を付けたがりますが、何故なのか意味が分かりません。そんなの自由にさせたら良いではないですか。
「あなたも自己判断で自分の好みで好きにしていますよね? してないんですか? 」と思うのです。ま、したくないとか、行為が嫌いだという方もいるでしょう。その辺はまた別な話なので悪しからず。
この現象は、欧米の文化と渡来した宗教、そしてその他の様々な宗教に起因すると考えています。そもそも法律というのは、宗教に影響されて出来ていて、次第に経済の影響を受け、利害関係が基礎のなったと思います。マウントや論破などは、その法律の歩みに影響され、引いては教育を浸してしまっているのです。ですから、テレビを見て今の教育を受け大人になれば、スキャンダルなどが脳にとって美味しい餌になってしまうのです。

話を戻しますが、自由というのは、兎に角そのくらい難しいということでしょう。自由を求めていくと、誰にも何も言えなくなります。それこそどういう訳か不自由になってしまうのですからどうしようもありません。

言い換えれば、究極のエゴこそが自由なのです。そう考えると思い当たりませんか? 常識などどうでもよい金持ち連中のことが。不思議に思えるでしょうけど、自由に素直に生きているだけです。地獄に落ちるとかバチが当たるとか言っててもそんなものはありません。ただ事業に失敗したり投資に失敗したりすることはあるでしょう。でもそれは、地獄に落ちるということやバチが当たったということではありません。そういう考えを持つことも改めた方が良いでしょう。

はっきり言いますが、世の中には事象として起こり得た結果が示される以外のことはありません。何もかもに感情を入れてスピ的に装飾するのはよろしくないと思っています。

そして、もう一つ戦争についてです。564などは、戦争では良くて英雄扱いです。しかし平時はダメですよね。この矛盾をどうして理解できるのでしょうか。騙されていることに気が付いたほうがよいでしょう。
『奴らがやって来るから対抗するために仕方がない。』
何故ですか? 564という点では、同じで何も違いません。つまり相手もそういう気持ちにさせられ参加してしまっていて、その者同士が対戦しているという訳の分からない状態が戦争なのです。もしも、政治的な揉め事であるなら代表同士がリングでルールを持って戦えば済むではないですか? 果てしないお金と人々を戦いの駒として使役し、流血されるのでしょうか。まずは、喧嘩を始めた人間が勝手に564合えばよいではないですか。仕方がないのでそれは誰の目にもつかないところでやってくれれば罪に問うことはしないというくらいでよいでしょう。戦争の号令をかけるのは、誰でしょうか。その人間がさつ人者なのです。

簡単な判別ですが、おかしいということに容易に気付きませんか。そうすると、左右に分かれた極論での議論がバカなものにすら聞こえてきます。

人間は、群れたがりだったり、思想を共有したがりだったり、攻撃したがりだったり、いろんな面で我儘なんですよね。そういうものなんですよね。

真の自由について、何となくですが人間のどうしようもなさにあって成立し難いものだと、今は考えています。何故なら真の孤立にはならず、俺も人に関わって生きていますからね(笑)

※世界中の自由の象徴のようなものって、何となく闘いをモチーフにしてますよね。勝ち取った的な。それって本当に自由の象徴なのか?

ある意味で、真の自由とは、国が正しい政治を行うこと。戦争をさせない。しない。加担もしない。サポートもしない。そんなことじゃないだろうか。思想や理想を追いかけるだけでは、守り切れないものがあると思う。
(Youtubeにもあるけれど、戦争の作り方という絵本動画を検索して観てみれば、人々が悪政の下で常識とか団結などという綺麗事に騙されているのが分かるだろう。)

百年か二百年か、どれだけの時間がかかるか分からないけれど、政治を変えなければ根本的な解決は何一つ出来ない。

真の自由とは、そういうことなのだろう。