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3×3Questions
あれは確かフォードに転職して半年ほどたった時だったと思う。(ずいぶん昔だ)デトロイトの本社に世界中の子会社の人事責任者が集められた。本社の部課長も参加したので全員で100名ほどいただろうか。世界人事責任者会議である。
2日間の日程で、経営方針を聞いたり、人事戦略についての説明などがあった。簡単なグループディスカッションはあったが、これと言って得るものは少なかったように思う。(以前このnoteで紹
物語あるいはナラティブ
人の上に立つと、あなたは自分の方針や価値観を語ることが求められる。
しかし、よく有り勝ちなのは、会社の方針や目標、そこからカスケードされた上司のそれを自分の責任範囲の中でブレークダウンしてそのまま内容、数字目標はもちろんロジックや背景すらも同じ語り口になってしまうことだ。
目標管理、方針管理を機械的に運用すればどうしてもあなたの独自の意思を入れづらい。むしろ、なまじあなたの意思が強すぎると、上
サイレントパートナー
第一次世界大戦が終わった1919年、パリに戦勝国27か国の首脳が集まってドイツに対する責任追及、賠償問題を論じた。しかしこの時、同時にその後の世界の秩序をどう構築するかといったことがむしろより大きな議題となった。ベルサイユ講和会議である。日本は日英同盟に基づきイギリスの要請を受けて東シナ海や地中海に日本艦隊を出し、ドイツに宣戦布告したことで戦勝国に名を連ねることになった。また、日本は日清、日露戦争
もっとみるモノが曲がって見える
私はモノがやや歪んで見える。根性が多少ひねくれているというせいではない。
60歳を過ぎたころ、直線のものが多少、曲がって見え始めた。
左右ともだが、それぞれが微妙に見え方が違うがいずれも波を打ったように歪んでいる。
網膜の中心は黄斑といい、そこに視神経が集中しているそうな。目にとって一番といっていい重要な部位だ。その黄斑に関しては様々な疾患があるが、私が患ったのは黄斑前幕というもの。黄斑部に主
アメリカ遊学記 その2(全2回)
遊学したのは1977年だが、当時の日本は日の出の勢いで、我々留学生もやや胸を張って羽田を発った記憶がある。エズラ・ボーゲルの『Japan as No1』が、発刊されたのが2年後の1979年だから、無理もない。
しかし、いざ暮らし始めるとあらゆる面での彼我の大きな差に仰天した。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。身近なところでは、ハムサンドに入っていたハムの多さ。日本の5倍はあった。ビールを仲
今更ながらのホームページ作成
フォードを定年後間もなく、個人会社を立ち上げた経緯は以前にも記した。
定年時、外資系社長のお誘いもあったが、あのしんどさを続けると命を縮めかねないとやや大袈裟に思いお断りした。また、例えポジションや報酬がよくても誰かの部下になるのはもういいかなとも考えた。そうすれば独立しかない。個人事業主、すなわちインディペンデントコントラクター(IC)は自由そうだが、どうも気合が入っていないような気がして、会社
アメリカ遊学記 その1(全2回)
1977年から1978年にかけて、アメリカ、イリノイ大大学院に約1年間、留学した。社命である。その当時に予期されていたグローバル化、そしてアメリカ・ヨーロッパへの工場進出を睨んでの新しい留学生制度の一期生であった。この1年間留学という制度は、三井物産のあるOBの主導で、英語が余り達者でないが、将来日本の国際化に役立つ人材を育てようというちょっと変わったものであった。(選ばれた自分が言うのもやや恥ず
もっとみるvulnerabilityもしくはfragility
日本には平安の昔から“はかない”という表現がある。儚いという漢字を充てるのも興味深い。
考えてみれば、人生は一瞬の連続であり、地球の歴史から見れば人生そのものも一瞬である。永遠などということはない。そもそも人ははかない存在だ。厭世的に言っているのではない。私には、儚さは、世の哲理のように感じる。
こう私たち日本人が考えるのは、和辻哲郎ではないが、やはり風土は関係しているだろう。山が多く、したがっ
Play the role
1992年、南アフリカ日産から人事管理・労使関係に関してアドバイスが欲しいと当時、日産本社で人事部門の責任者であった私に出張の要請があった。アメリカについてはテネシーの製造会社、デトロイトの設計・開発会社それぞれの設立に参画したことなどから土地勘もあり、多少の知見もあったが、南アフリカとなると全くと言っていいほど、自信がなかった。しかし、現地の出向責任者からしてみれば、生産性や品質の向上に大きく立
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