カルチャー

1987年、日産がアメリカデトロイト近郊に設計開発会社を立ち上げることになった。私は当時、ロサンゼルスの現地販売会社で人事・法務担当であったが、急遽デトロイトに管理部門VPとして異動を命じられた。

経営のグローバル化に伴う、現地開発は現地生産に比べ一段とその難度が上がる。ビッグ3から採用した設計技術者に仕事を任せれば、到底日産車にはならない。へんてこなアメリカ車になってしまう。生産ノウハウはある程度、形式知化できるが、設計・開発の知の形式知化は極めて限られた分野になる。日産の設計開発部門に長く在籍し、共にああだ、こうだと議論を重ねクルマを作ってきたエンジニアの中で共有されてきた暗黙知・経験知無くしてmade by Nissanにはならない。

従って、当然のことながら設計・開発会社をアメリカで立ち上げるために、大量の日本人を出向させることとなった。一番多い時で短期出張者を含め優に100名は超えた。一方、同時に現地化ということであれば大量のアメリカ人技術者に活躍してもらわねばならない。
元GMやフォードの技術者を大量に採用したが、彼らにどう“日産式”開発ノウハウを移転していくか、また日本側としてもGMやフォードのノウハウをどう取り込んでいくのか気の遠くなるような作業が始まった。

下手な英語でしかも形式知化されていない知見をどう伝えていくか、日本人出向者は大いに悩んだが、一方、アメリカ人も日産式の思考の型・スタイルがわからない。暗黙知の大きな塊ばかりで形式知化された書き物は極めて少ない。何故、このパネルの形状はこうでなくてはいけないか、なぜそこまで品質にこだわるのか、など。会社設立時しばらく日本対アメリカの対立があちこちに見られた。だからアメリカ車の品質は悪いのだと日本人エンジニアは言い、そんな設計ではアメリカの消費者は満足しないとアメリカ人エンジニアは譲らない。日米の“カルチャー”の違いが常に話題となった。

しかし、しばらくすると同じアメリカ人の中でもGM出身者とフォード出身者ではかなり意見が違うことを”日本勢”は気が付くようになった。どうもアメリカも一括りにはできない、それぞれの企業文化があるようだ。

さらに時間が経つと徐々に面白い変化が出てきた。
設計・開発部門と管理部門の間の溝が話題になるようになった。
エンジニアは管理部門は現場のことがわかっていない、サポートが足りないと批判する。一方、管理部門はエンジニアは文句ばかり言う、人材の育成や企業文化の醸成に興味が薄いなどと日米の対立から設計開発部門対管理部門の対立に移った。そこでは日米の対立は陰に隠れてしまった。

また時間が過ぎると新しい対立が見えてきた。設計部門と実験部門との対立である。ここでは日米の文化の違いは論議の対象にならない。設計と実験という機能・立場の違いが前に出てきた。

さらに時が経つと、同じ設計部門でも車体設計部とシャシー設計部が言い争っている。どうも日米の文化の違いはそこでは些末なことのようだ。アメリカであろうと日本であろうと人は自分が所属する役割・機能の方に自分の身を置くということが見えてきた。

こうして観察してくるといつまでも議論が前に進まないのは日米の文化の違いに逃げ込んでいたからということに勘のいい人は気づき始めた。その人がどの国で生まれ育ったかより、どのような会社で、どのような仕事をしてきたか、更に個人としてどのような価値観を持っているかということを理解することが重要のようだと理解が進んだ。

この原稿を書くにあたって改めてcultureを辞書で引いたら、その説明の最後に“個人の教養”と書いてあった。

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