檀風

1969年大学卒業後、日産自動車に入社。日産初のアメリカ工場及び設計開発会社設立に参画…

檀風

1969年大学卒業後、日産自動車に入社。日産初のアメリカ工場及び設計開発会社設立に参画。1995年フォードジャパンに転職。2002年フォード史上初の人事出身カントリーマネジャーとして同社社長に就任。現在は多摩大学大学院客員教授、 (株)檀谷アソシエイツ社長、ライフシフトEVP

最近の記事

定年が見えてきた

そろそろ役職定年だとか、定年が迫ってきたという50歳前後から60歳前後の方から、その将来について相談をよく受ける。多くは、企業の中高齢者対象のキャリア研修の一環で、個人別のアドバイス・メンタリングを受け持っている。 少子高齢化や働き方改革、多様化する価値観など時代の大きな流れに各企業も定年延長や定年廃止、役職定年廃止などの制度や仕組みを採り入れるだけでなく、この年代のキャリアついて本人が“自律的に”考えてほしいという狙いで、こうしたキャリア研修が急増してきた。 しかし

    • 松岡正剛さん  その2

      松岡正剛さんと言えば“千夜千冊”。 2000年からスタートしたブックナビゲーション。一冊の本を取り上げ、その本に関連するテーマについて彼独特の切り口で、深く、広く、時には遠くから、自在に語っているシリーズ。最終的には1850夜までになったようだ。 私も関心のある”夜“をいくつか覗いたのだが、難解で、ついて行くのが難儀である。あちこちと話が飛ぶ、次々と関連した本や考え方などが現れ、富士山の麓の青木ヶ原樹海に迷い込んだ感覚になる。こちらにきちんとした羅針盤やかなりの教養という地

      • 松岡正剛さん  その1

        現代の知の巨人であった松岡千剛さんがお亡くなりになった。 〈2024年8月12日〉 この檀風を読まれている方の多くはご存じかもしれないが、彼は、いささか玄人好みのとでもいおうか、あるいは難しすぎて取っ付きづらいとでもいおうか、一般的には余り知られていないかもしれない。 1980年代に“編集工学”(Editorial Engineering)という知の方法論とでもいうべき、新しく、創造的な考え方・アプローチ法を生み出し、その守備範囲は 基本となる言語はもちろん、日本文化論、

        • note再開     “継続は力なり”

          前回のnoteアップからあっという間に1年近くが経ってしまった。 2022年6月が初回なので、そこからは、もう2年以上経つ。 正に“光陰矢の如し”だ。 ある方から、私のビジネス経験を書き留めておくことは40歳―50歳代のビジネスパーソンにとって有益だなどと煽てられたことがきっかけだったが、自分の来し方を振り返ることは私にとっても意味のあることだと思い、まぁ1年は続けようとスタートした。 週1回のペースとやや意気込んだのも、喜寿を超え様々な面でスローになってきた自分自身に刺

        定年が見えてきた

            3×3Questions

          あれは確かフォードに転職して半年ほどたった時だったと思う。(ずいぶん昔だ)デトロイトの本社に世界中の子会社の人事責任者が集められた。本社の部課長も参加したので全員で100名ほどいただろうか。世界人事責任者会議である。 2日間の日程で、経営方針を聞いたり、人事戦略についての説明などがあった。簡単なグループディスカッションはあったが、これと言って得るものは少なかったように思う。(以前このnoteで紹介した"and Swedish"の話を除いて。)今にして思えば、“顔合わせ”で、

            3×3Questions

          『宇沢弘文』

          人物評伝を読むのが好きだ。 その生い立ち、両親の影響、青年期をどう過ごしたか、どのような師や友人に出会ったか、更に挫折や壁にどう向き合ってきたかなどを知ることでその人の人生の生き方・考え方をより、臨場感をもって知ることができる。どんな偉人や有名人も必ず原点があり、屈折点・変曲点がある。それを裏話や逸話を含めて知ることはその人を知るうえで極めて意味のあることだ。 これまで多くの人物評伝を読んできたが、2冊ほど上げれば、まずエズラ・ボーゲルの『鄧小平』だ。エズラ・ボーゲルと言え

          『宇沢弘文』

          物語あるいはナラティブ

          人の上に立つと、あなたは自分の方針や価値観を語ることが求められる。 しかし、よく有り勝ちなのは、会社の方針や目標、そこからカスケードされた上司のそれを自分の責任範囲の中でブレークダウンしてそのまま内容、数字目標はもちろんロジックや背景すらも同じ語り口になってしまうことだ。 目標管理、方針管理を機械的に運用すればどうしてもあなたの独自の意思を入れづらい。むしろ、なまじあなたの意思が強すぎると、上司の方針と平仄が合わず、下から見ても組織全体としてちぐはぐ感が露呈してしまう。す

          物語あるいはナラティブ

           定期異動

          日産に26年お世話になったが、11回異動した。平均在籍2.4年である。 定期異動は主にホワイトカラー対象の人事制度の一環であるが、いわゆる長期(終身)雇用という枠組みの中でなかなか、よく考えられた制度であると思う。 3年に一度ぐらいのペースで所属・職務を変えることで本人に知的刺激を与え、やる気を維持・向上させ、更に本人の知見の幅を広げるという目的もある。 一般的には同じ部門での異動が多いのだが、多くの職務を経験することで、その部門全体の仕事の流れや関係性について全体像が把握

           定期異動

          カルチャー

          1987年、日産がアメリカデトロイト近郊に設計開発会社を立ち上げることになった。私は当時、ロサンゼルスの現地販売会社で人事・法務担当であったが、急遽デトロイトに管理部門VPとして異動を命じられた。 経営のグローバル化に伴う、現地開発は現地生産に比べ一段とその難度が上がる。ビッグ3から採用した設計技術者に仕事を任せれば、到底日産車にはならない。へんてこなアメリカ車になってしまう。生産ノウハウはある程度、形式知化できるが、設計・開発の知の形式知化は極めて限られた分野になる。日産

          カルチャー

          サイレントパートナー

          第一次世界大戦が終わった1919年、パリに戦勝国27か国の首脳が集まってドイツに対する責任追及、賠償問題を論じた。しかしこの時、同時にその後の世界の秩序をどう構築するかといったことがむしろより大きな議題となった。ベルサイユ講和会議である。日本は日英同盟に基づきイギリスの要請を受けて東シナ海や地中海に日本艦隊を出し、ドイツに宣戦布告したことで戦勝国に名を連ねることになった。また、日本は日清、日露戦争の勝利国ということもあり、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと並び世界をリー

          サイレントパートナー

          こんにゃく問答

          落語の有名な噺に“こんにゃく問答”というのがある。志ん生、圓生、小さんなどの名人は皆、演じるが、私は独特の真正直な雰囲気を持つ林家正蔵の語りがこの噺に一番合うように思う。 噺の筋は大体以下のようなものだ。 旅の禅修行中の学僧が、田舎の寂れた寺の住職に化けたこんにゃく屋の六兵衛との無言(ジェスチャー)でのやり取りをする話だ。 学僧が手で印を作って(無言で)問いかけると、六兵衛は腕を使って大きな輪を作って応じる。僧はそれを見た旅僧は平伏する。僧は次に10本の指を立てると六兵衛

          こんにゃく問答

          アブダクション

          推論の種類に演繹法(deduction)と帰納法(induction)があるというのは誰もが、中学か高校時代に学ぶ。 演繹法の有名な事例は以下のようなものだ。 ① 人間は全て死ぬ(規則) ② ソクラテスは人間である(事例) ③ 従ってソクラテスは死ぬ(結果) つまり、規則あるいは定理に事例を当てはめて結論を導くという極めて当たり前のアプローチだ。この規則には数学を中心としてギリシャ・ローマの時代から先人の知恵が結集・蓄積されており、大変な安定感がある。頼り

          アブダクション

          モノが曲がって見える

          私はモノがやや歪んで見える。根性が多少ひねくれているというせいではない。 60歳を過ぎたころ、直線のものが多少、曲がって見え始めた。 左右ともだが、それぞれが微妙に見え方が違うがいずれも波を打ったように歪んでいる。 網膜の中心は黄斑といい、そこに視神経が集中しているそうな。目にとって一番といっていい重要な部位だ。その黄斑に関しては様々な疾患があるが、私が患ったのは黄斑前幕というもの。黄斑部に主に加齢が原因のようだが、薄い膜ができて、モノが曲がって見えてしまうという厄介な疾

          モノが曲がって見える

           note1年

          あるきっかけで、このnoteに軽いエッセイを書くことを始めた。 書くに当たっていくつかの決め事をした。 読んでいただく方を40歳から60歳ぐらいのビジネスパーソンをイメージすることとした。というのも私は平均的なビジネスパーソンだが馬齢だけは重ねたので来し方を中心に経験やその折々に感じたことぐらいなら書ける。それが読む方に何らかの参考になるかもしれない思ったからである。 一方、単なる経験知だけでなく、たまには経営や人材に関することも自分なりに整理して書くことで、多少私自身の

           note1年

           アメリカ遊学記 その2(全2回)

          遊学したのは1977年だが、当時の日本は日の出の勢いで、我々留学生もやや胸を張って羽田を発った記憶がある。エズラ・ボーゲルの『Japan as No1』が、発刊されたのが2年後の1979年だから、無理もない。 しかし、いざ暮らし始めるとあらゆる面での彼我の大きな差に仰天した。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。身近なところでは、ハムサンドに入っていたハムの多さ。日本の5倍はあった。ビールを仲間で、頼めばバケツのような大きなピッチャーで出て来る。(この時初めて a pit

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          今更ながらのホームページ作成

          フォードを定年後間もなく、個人会社を立ち上げた経緯は以前にも記した。 定年時、外資系社長のお誘いもあったが、あのしんどさを続けると命を縮めかねないとやや大袈裟に思いお断りした。また、例えポジションや報酬がよくても誰かの部下になるのはもういいかなとも考えた。そうすれば独立しかない。個人事業主、すなわちインディペンデントコントラクター(IC)は自由そうだが、どうも気合が入っていないような気がして、会社経営の勉強も兼ね“株式会社”を設立した。2008年のことだ。お陰様でフライシュマ

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