サイレントパートナー

第一次世界大戦が終わった1919年、パリに戦勝国27か国の首脳が集まってドイツに対する責任追及、賠償問題を論じた。しかしこの時、同時にその後の世界の秩序をどう構築するかといったことがむしろより大きな議題となった。ベルサイユ講和会議である。日本は日英同盟に基づきイギリスの要請を受けて東シナ海や地中海に日本艦隊を出し、ドイツに宣戦布告したことで戦勝国に名を連ねることになった。また、日本は日清、日露戦争の勝利国ということもあり、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと並び世界をリードする五大国というやや荷の重いポジションを得て代表団をパリに送った。

この会議は世界歴史上はじめてと言って良い、多国間国際会議であり、各国とも大統領や首相を送り込んだ。しかし、日本は国内の政治事情などもあり、原首相の名代としてフランス留学の経験がある元老西園寺公望が選ばれたが、実務は牧野伸顕に任せきりだったようだ。

国際会議で求められるのは、主張であり、対話であり、交渉といった総合的なコミュニケ―ション力である。こうした中で能力を発揮し、会議をリードしたのはアメリカ代表、ウィドロー・ウイルソンであった。彼はこれからの世界のあるべき姿を示し、平和14か条を提案、イギリス、ロイド・ジョージ、フランス、ジョルジュ・クレマンソーと共に会議の主導権を握った。アメリカが世界の舞台の躍り出た歴史的な場面でもある。

一方、日本はどうであっただろうか?そもそも名代の西園寺公望も会議に積極的でなかったが、日本の代表団に対する日本政府の訓令も自国の権益を主張することに主眼が行き、大きな話には“英国と歩調を一にすることを得策とする”とか“大勢に順応して可なり”いう情けないものだった。結局日本は自国中心、消極的であいまいな態度の終始し、世界のメディアは遂にそうした日本代表団を“サイレント・パートナー”と呼ぶようになった。

その後日本は国際連盟の脱退とつながって無謀な世界第二次大戦に突入していく。国際社会がどう変化し行くかという歴史認識の欠如や国際社会おけるコミュニケ―ションの有りように学ぶことをそのままにして。

私は、こうした姿勢を素直に批判できない。以前、読んだ内田樹著『日本辺境論』にも触れてあったが、日本はどうもいつも“きょろきょろ”しているのが特徴のようだ。世界のどこかに中心があり、我々はそれにいかに近づけるかあるいはその距離をどうとって行くかに関心の主があり、自らの主張、軸を示すのは得意ではないようだ。

戦後は、欧米という教科書があり、それを学び追いつけ追い越せでやって来たが、いざ追いついてみると、その先を見ずから示すことはできず、結局アメリカ主導のグローバリゼーションに翻弄され、失われた30年と相成ってしまった。近年“新しい資本主義”も単なるスローガン的で、主義・主張、価値観が見えない。哲学がないのだ。

日本がこれから政治に限らず、経済においてもグローバルに生き抜いていくには、いい加減に“きょろきょろ”は捨てて、どっしりと構え、独自の歴史観や価値観を前面に出して行きたいものだ。その為にもグローバルに通用するリーダーとしてのコミュニケーション力、とりわけ発信力を磨く必要があると強く感じる。

あるいは、明治維新、世界第二次大戦後のように、目指すべきお手本がどこからか示されなければ、日本は再び、大きくは発展しないのだろうか?お手本であったアメリカの地位が低下し、いくら急成長しているといっても政治体制の大きく違う中国では、お手本になりそうもない。はてさてどうしたものか?


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