モノが曲がって見える

私はモノがやや歪んで見える。根性が多少ひねくれているというせいではない。

60歳を過ぎたころ、直線のものが多少、曲がって見え始めた。
左右ともだが、それぞれが微妙に見え方が違うがいずれも波を打ったように歪んでいる。

網膜の中心は黄斑といい、そこに視神経が集中しているそうな。目にとって一番といっていい重要な部位だ。その黄斑に関しては様々な疾患があるが、私が患ったのは黄斑前幕というもの。黄斑部に主に加齢が原因のようだが、薄い膜ができて、モノが曲がって見えてしまうという厄介な疾患だ。放っておけば失明もするらしい。恐ろしい。

町医者に紹介されて、その分野の名医がいるという横浜市大にいった。手術を待っている人が至極多く、半年ほど待つことになった。
片目ずつ2年で2回に分けてそれぞれ1週間ほど入院する羽目になった。

医者からは手術して正常に戻るのは稀で、ほとんどは悪化が止まるというとのこと。悪化することもごく僅かあるとのことだったが、手術自体は成功して、“お陰で”現状維持ということになった。しかもこの手術も私が手術を受ける10年ほど前に開発されたとか。感謝。
それでも元に戻ったわけではない。相変わらず直線のものが少々歪んで見える。しかも加齢とともに悪化も考えれれるということで、医者の勧めで、私にとってはかなり高価な薬を毎日服用している。今も。

しかし、60年間、当たり前だが、直線のものは正しくまっすぐに見えていたので、患った後でも今も実際には歪んだり、曲がって見えるのだが、“脳”が長年の”経験“からこれは直線だと指令を出しているようで、直線に”見える“。(気がする)目を凝らせば、実際は歪んで見えるのだが、歪んでいることを気にしなくなったのだろう。歪みを”受け容れている“ということかもしれない。次第にゆがみが気に無くなり、脳の指令もありほぼ直線に”見える“。
長年の間に脳に刻まれた認識が現実を変えてしまうと表現するのはやや大袈裟だろうか。

この黄斑前幕の事例をアナロジカルに考えると、私たちは長年の経験で現在目の前で起きていることを理解・認識しているのではないかという疑問が出てくる。現実は違ってきているにもかかわらず、経験に引きずられていないだろうか?それがプラスに働くこともあろうが逆な側面もあることを考えなくてはいけないだろう。


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