アブダクション

推論の種類に演繹法(deduction)と帰納法(induction)があるというのは誰もが、中学か高校時代に学ぶ。

演繹法の有名な事例は以下のようなものだ。
①    人間は全て死ぬ(規則)
②    ソクラテスは人間である(事例)
③    従ってソクラテスは死ぬ(結果)
つまり、規則あるいは定理に事例を当てはめて結論を導くという極めて当たり前のアプローチだ。この規則には数学を中心としてギリシャ・ローマの時代から先人の知恵が結集・蓄積されており、大変な安定感がある。頼りになる。しかし、この安定感あるいは安心感が曲者で、人はこの落とし穴に落ちてしまい、自分で考えるということが少なくなる。楽をしてしまう。例えば、学校教育でも見られるように規則・定理を覚えることが学ぶことの中心になってなどその一例だ。
規則さえ学べばいいのは楽だが、その分、ちっとも面白くない。皆が勉強嫌いになるのも無理はない。こうした教育は創造的な人材が生まれない素地を作ってしまう。
定理・公式を導き出すまではいいが、一旦出来てしまうとこの演繹法がマイナスに機能してしまう場合がある。

一方、帰納法の事例は以下のようなものだ。
①    ソクラテスは死んだ(事例)
②    アルキメデスは死んだ。
アリストテレスは死んだ、プラトンは死んだ・・・・(複数の似た事例)
③    従って人間は死ぬ(複数の事例の観察から得られる規則の発見)
この方法は演繹より人間的だ。とにかく多くの事例を集めて、観察しなくてはいけない。
根気もいる。そのうえで一般規則を導き出すのだから、あれやこれやと思索の楽しみがある。
しかし、いくら何でもすべての事例を集めるのは無理であるし、あるいはすべて集めたと証明するのは難しい。これがこの方法の欠点ではある。
だが、これだけ事例が集まればまず間違いないだろうと(仮に)、一般規則を考える。
そしてその後、出てきた事例もこの規則に当てはめ、同じ結果が得られれば、演繹と同じようなポジションを得られる。
演繹と違って発想が人間的、拡散的でダイナミックなところが帰納の面白さだ。私は好きだ。

ところで、お恥ずかしい話だが、今一つの推論の方法、仮説形成(abduction)という存在を知ったのはほんの15年ほど前のことだ。この推論の方法は19世紀後半から20世紀前半に活躍したアメリカの哲学者・論理学者であるチャールズ・サンダース・ピースが提唱したものだ。
これを上記事例になぞらえて示せば以下のようになる。
①    ソクラテスは死んだ(事例)
②    人は死ぬ(のではないか?)(意外な事例から一気に規則を仮説する)
③    従ってアルキメデスは死ぬ(事例適用・結論)
一つのあるいは少ない事例から一気に規則・定理を仮説するのがこの推論の醍醐味である。そんな少ない事例で規則など導きだすことは無理があると考えるのが一般的だろう。
しかし、多くの創造的な科学者はこうした推論を得意としている。というかそうした飛んだ
発想ができなければ新しい規則など発見できない。しかし、そのためには日頃からその課題について悩んでいなければ神は飛ぶことを許さない。パスツールの言葉のようだが“Chance favors the prepared mind”(チャンスは準備された心のみに降り立つ)なのだ。

この推論の方法は発明されたというより発見されたというべきだろう。よく考えてみると私たちは幼い時からこのアブダクションを駆使して言葉を理解し、行動してきたように思う。これってああいうことかと考えてみては失敗し、徐々に法則を見出していく。
最近読んだ今井むつみ・秋田喜美著『言葉の本質』に幼児がどのようにこの複雑な言葉を体得していくかをアブダクションを使いながら説明しているには合点がいった。

私はこれまでのビジネスキャリアを振り返ってみるとこのアブダクティブな発想ができたときは、思いもよらないよいプロセスや結果を残せたように思う。
ビジネスパーソンはついつい大方の合意を得るために演繹を使いがちだが、イノベーションが求められる現在、このアブダクションについて理解を深めたいものだ。

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