アメリカ遊学記 その2(全2回)

遊学したのは1977年だが、当時の日本は日の出の勢いで、我々留学生もやや胸を張って羽田を発った記憶がある。エズラ・ボーゲルの『Japan as No1』が、発刊されたのが2年後の1979年だから、無理もない。

しかし、いざ暮らし始めるとあらゆる面での彼我の大きな差に仰天した。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。身近なところでは、ハムサンドに入っていたハムの多さ。日本の5倍はあった。ビールを仲間で、頼めばバケツのような大きなピッチャーで出て来る。(この時初めて a pitcher of beerという表現を知った)大学のキャンパスただただ広い。図書館、体育館、スポーツ競技場どれをとっても豪華でスケールが違う。よく言われた表現だがこんな国とよく戦争などしたものだといまさらながら感じたことだった。

今回はその中でも〝差“の違いに関するエピソードを二つ紹介したい。

その1.
留学当初はunder graduate学生の寮に入ったが、毎晩のようにパーティ風で騒がしい、とても勉強する環境ではないとgraduate生を対象とした寮に移った。
そこで腰が抜けるような経験をした。毎週、水曜日だったと記憶しているが、夜、8時過ぎ寮生がロビーに三々五々集まってお茶を飲みながらおしゃべりをする習慣があった。
私はそこで足も手もない女性が車いすで皆と楽しく話している姿に接した。当時の日本ではまだまだ車いすも珍しかったし、ましてそうしたハンディを持っている人が大学院で学んでいること、そして堂々と自然体で皆と話していることに少なからずショックを受けた。そもそもショックを受けたことという自分自身が恥ずかしいという気がしたものだ。

彼女には更に驚かされる。夏のある日、だだっ広いキャンパスの芝生になんと彼女は水着を着て日光浴をしていたのだ。ハンディキャプを持っている人が健常者と同じような生活をしている。そういえばキャンパスのどこでも車いす用のスロープが用意されていた。
日本でそうした光景が見られるようになったのはその25年後ぐらいだったように思う。こうした面でも彼我の差を感じたことだった。アメリカとは様々な面で“差”があったが、この体験を通じ、私は日本の社会的慣習の後進性を強く意識するようになった。

その2.
イリノイ大学は、アメリカでも有数の大学でこれまで11名のノーベル賞受賞者を輩出しているが、なかでもコンピューター工学は突出している。私は英語のクラスを大学院授業と同時に受けていたが、コンピューターで自習できる仕組みがすでにあった。図書館などにコンピューターが何台も揃っており、個人のパスワードを入れると学習している今学んでいる英語の画面が出てくる。しかもスタートは前回できなかった問題を正解しないと次の画面にいけないという工夫までされていた。この時にもこうしたコンピューターの発達、学びへのサポートなど日本とアメリカの大きな”差“について考えさせられた。ジャパンアズナンバーワンなどと言われたりしたがその基盤の厚みの違いは歴然としていた。
日本の人事管理などで当時もてはやされていたが、大学院で学んだアメリカの人事管理面での研究においてもどっしりとしていた。バブルがはじけ失われた30年などと言われ、
一人当たりのGDPも30位近くまで下がった現在を考えるとやはりアカデミアの分野での基礎・基盤の重要性を感じざるを得ない。

過日、一年ごとに開いている留学同期会に出席した。いつの間にか46年の歳月が過ぎて思い出話に花が咲いたが、そのいくつかは上記に記したような彼我の違いであった。あの留学を契機に、ものの見方が大きく変わったとの皆が口々にしたことだった。


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