Play the role

1992年、南アフリカ日産から人事管理・労使関係に関してアドバイスが欲しいと当時、日産本社で人事部門の責任者であった私に出張の要請があった。アメリカについてはテネシーの製造会社、デトロイトの設計・開発会社それぞれの設立に参画したことなどから土地勘もあり、多少の知見もあったが、南アフリカとなると全くと言っていいほど、自信がなかった。しかし、現地の出向責任者からしてみれば、生産性や品質の向上に大きく立ちはだかっているのが、労働関係で、”専門家“から何か意見・ヒントが欲しかったのだろう。また、遠く離れた南アフリカの日本人出向者の実態についても知ってほしかったのかもしれない。どういう経路であったか忘れたが、ほぼ一日かけて何とか辿り着いた。

南アフリカはまだアパルトヘイトが残っており、白人と黒人の差別はあらゆる面で歴然と残っていた。居住地域、生活レベル、職業など。黒人の居住地域やその住居を目のあたりにしたとき、アメリカの奴隷制度を思い起こされるようなひどさだ。一方、白人は居住地域自体が高い壁に囲まれて、安全が確保しており、家自体も瀟洒だ。これほどの差を見せられると、自動車の製造現場でも白人の管理者・技術者と黒人の労働者がワンチームで働くことなど到底考えられない。日本の人事制度などどうやっても機能しないと改めて実感したことだった。

それでも何か多少なりとも役に立つアイディアがないかと、現場に出て行って管理者・監督者、作業者の意見を聞いて回った。自動車製造は大きく車体、塗装、組み立てとその役割が分かれているが、そこに全従業員のほとんどがいる。人事部は本社機能の一部で、現場から上がってくる様々な課題を毎日モグラたたきのように捌いている。会社の作業者の間の信頼感などなく、人事部門も上から目線で対応するし、作業者の意欲なども期待していない。

聞き込みを丁寧にやっていると一つアイディアが浮かんだ。
いくら黒人・白人といっても人同士である以上、互いの接触機会が増えれば、理解が増すのではないか?また本社事務所からの上から目線では現場の実態がわからない。
そこで車体・塗装・組み立ての主要三部門に人事責任者(係長クラス)というポストを用意するのはどうか?しかもできれば黒人で優秀な方がいい。上司は各部門の白人管理者だが人事部にドッデッドラインでつながっているようしながらも、できるだけその人事責任者に裁量を渡すようにしたらどうか。この案はその後採用されたようだ。帰国して半年ほどして私のアイディアがうまく機能して不満やもめごとが半減したとの嬉しい報告を受けた。

私はあの時、明治維新の雇われ外国人のような気分になった。ネルソン・マンデラが大統領になったのが1994年。南アフリカはまさに”明治維新“の時代。おそらく現場でも新しい時代が近づきつつあることを感じていたのかもしれない。徐々にアパルトヘイトが崩れる流れができていたのかもしれない。このアパルトヘイトが当時の白人大統領フレデリック・デクラークとマンデラが連携し、撤廃されたのがその前年の1993年である。
二人はその功績でノーベル平和賞を受賞した。

私の滞在はわずか3日ほどだったが、タイムカプセルのように私は“明治維新”を南アフリカで体感したのだったが、それ以降、ネルソン・マンデラの存在を強く意識するようになり彼に関する本など読んだりした。

27年間も反アパルトヘイト活動で牢獄にいながら、決してくじけない、夢をあきらめない。大統領になっても白人との融和に大きな懐で接した。彼は牢獄にいる間、イギリスの作家ウイリアム・アーネスト・ヘンリーの詩“Invictus”の一節である“I am the master of my fate, I am the captain of my soul.”を毎日胸に刻んでいたという。私はその強い意志に首を垂れるしかない。

彼はいろいろ名言を残しているがその中であまり有名ではないが,私は“Play the role”が好きだ。フォードの社長になったとき、この言葉に出会った。グタグタ言わず回ってきた役に徹しきれということだ。彼が、歴史的に果たさなければいけなかった役回りからすれば、私の役どころなど吹けば飛ぶようなものだ。しかし、この名言を思い出すと、多少の難題にも立ち向かっていけた。

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