アメリカ遊学記 その1(全2回)

1977年から1978年にかけて、アメリカ、イリノイ大大学院に約1年間、留学した。社命である。その当時に予期されていたグローバル化、そしてアメリカ・ヨーロッパへの工場進出を睨んでの新しい留学生制度の一期生であった。この1年間留学という制度は、三井物産のあるOBの主導で、英語が余り達者でないが、将来日本の国際化に役立つ人材を育てようというちょっと変わったものであった。(選ばれた自分が言うのもやや恥ずかしいが)
そのお陰で、当時(今も大して変わらないが)英語が決して得意でない私も拾っていただいた。日本から10数名の仲間と共に5月30日、羽田を飛び立った。会社の偉い人や同じ職場で仲良くなったサッカーの加茂周さんなども見送りに来てくださった。会社の期待を背に感じながら、ロサンゼルス、シカゴで乗り換え、大学町シャンペーン=アバーナにプロベラ機は着いた。

3ヵ月もすれば、英語はペラペラになるなどといわれたが、3か月たってもその気配は全くない。従って肝心の大学院の授業もとてもついて行けない。もともとMBAを採るというコースではないので、やや気軽に構えていたことは白状しなくてはいけないが、それにしても時計の針は思ったより早く進む。私は、こりゃ真面目に寮や図書館に立てこもって勉強しても将来会社の役に立つとは思えないと考えるに至った。せっかくアメリカいること、しかも仕事をしなくていいのだから時間は十分ある。

経験こそ意味があると自分勝手な理由を見つけ、とにかく、アメリカ中を旅した。当時、わずかにあった貯金をはたいてでも多様な経験を積むことにした。小田実の『何でも見てやろう』のノリだ。安いモーテルはもちろんだが、ボストンのリッツカールトンにも泊まった。自動車で走り回ったし、大陸横断鉄道にも乗った。アムトラックでは一番安いシートから個室で贅沢な時も過ごしたりした。ニューヨーク、ボストン、シカゴの美術館はもちろん、田舎町の市役所や職業安定所などにも顔を出した。近くの小学校に飛び入りで“先生”もやった。

伝手を頼って、ディアボーンのフォード本社も訪ねた。当時まだあった部課長食堂でランチをごちそうになった時は、”エクゼクティブ“という意味を実感したことだった。近くのフォードミュージアムのスケールの大きさには度肝を抜かれた。開拓期の農機具から、ミシン、機関車、飛行機、歴代の自動車など正にアメリカの経済史を現物が展示されていた。私の子供のころからあこがれていたアメリカを目の前にしてかなり興奮したことが思い出される。

ニューヨークでは毎晩といっていいほど、商社に勤めていた大学の友人の案内であちこち飲み歩いたし、ホームステイで古都チャールストンで歴史を体感し、ニューオリンズ、フレンチ・クオーターではガンボスープを味わいながら、ジャズも聴いた。勢い余って、足をメキシコに延ばし、GMの工場を見た後、会社には内緒でカンクーン、コスメルというこの世の天国を見た。いやはや贅沢きわまりない。

そうは言うものの勉強も少しはした。英語が分らず授業はちんぷんかんぷんではあったが、教科書は時間をかけて読めば、実務経験もあるので、何とかついていけた。クラスに日本人が2名ほどいたので、教科書を分担して読み、試験も予想問題を作り互いに予想解答をシェアし、最後にはクラスでトップレベルの点数もとったが、いかんせん多くの科目をこなすには時間が無い。外を飛びまわる方が忙しかったのである。会社には成績など報告しなくてはいけないので、叱られないよう科目数、点数はギリギリとった。

その中での面白かったのは、アンダーグラジュエイトのアメリカ経済史だった。このクラスのお陰で、アメリカという国の生い立ちが分かり、また歩き回ったお陰でそれらがやや立体的に感じるようになった。やはり、この目で見、この耳で聞き、この足で歩き、この手で触れることだ。この遊びまわった体験はその後、実務でも大いに参考になったことは言うまでもない。しかし、正式にMBAは採っていないのでその後やや肩身の狭い思いをしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?