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覚書_64

「覚悟とやら」

私には、ライフワークがある。かれこれ写真を続けて13年。
続けているうち、色々な人と出会い、話をすることがあった。
写真を本業にしないの?と聞かれることも多い。

そんな時に、「それ一本で食っていくという覚悟が足りない」という説教じみた話をされることが度々あるが、もういい加減慣れた。
最初の方こそ、そんな説教にいちいち傷ついて落ち込んでいた。

それ一本で食っている人のことはもちろん尊敬する。
情熱だけじゃ到底やっていけない、清濁併せ吞んでやっているのだろう。

私もそうあろうとしたことがある。
憧れたから、猛烈に。
けれど、それ一本で食っていくことによる弊害というのも痛感したし、
今ではそれを目指していない。

もちろん今でも憧れるよ、その道のプロ。
アーティストというより職人の域だ。技術が半端じゃない。
中にはプロもどきもいて、そういう割に全然下手じゃん、なんて思うこともたまにあるけれど、それでもそれ一本で食えているのは本当にすごいこと。

私にとってはどうなのか、という自問自答はもう何百回もした。
ベストなのは、依頼仕事じゃない、作品だけで食っていけること。
誰に頼まれたわけでもなく、自分が勝手に作ったものが売れること。
そんなのできる人なんて、万に一人か二人、いるかいないかだと思うし、
自分にそれだけ突き抜けた才能があるなんてうぬぼれてもいない。
そんな私でも、稀に作品が売れることがある。ただただ、ありがたい。

ライフワークとライスワーク、という言葉を聞いたときに腑に落ちた。
私にとって作品作りはライフワーク、誰に頼まれたわけでもなくやるもの。
それをやめたとて、誰も困らない、そういうもの。
続かなかったらそれだけだったってこと。

ライスワークは文字通り、お米を食べるためにやる仕事、生きていくためにやる仕事。
好きなことだともちろんやりがいが出てくるけど、好きじゃなくても割り切ってできるのが大事だと考えている。
意外にも(?)私はライスワークを持つことが性に合っている。
ライスワークがライフワークに及ぼす影響も少なからずある。
ライスワークによってライフワークの可能性が広がる、
そんな瞬間があることが、自分で思っている以上に好きなのだと思う。

だから、「これ一本で食っていけないお前は覚悟が足りない」なんて説教されても、もう屁とも思わない。
もともと気が小さいからその言葉を浴びるたびに恐縮していたけど。
なんならライフワークよりライスワークの方が楽しかったりもする。
「へえ~じゃあ趣味なの?」と言われても前より傷つかなくなった。
私は私に合うスタイルでいくから、外野は黙ってろって今は思える。
(言わないよ、思うだけ)
説教した人が、私に仕事をくれるわけじゃないしね。

一発で腹を決める覚悟はすごく格好いいし憧れる。
けれど、一日一日、今日も出来たぞ、とじわりじわりと高めていく覚悟の仕方があってもいいんじゃないかな、と思います。

そう考えるようになってからとても楽しいし、様々な状況下で各々が制作を続けているということを実感して、制作を続けるより多くの人に対してリスペクトの気持ちを抱けるようになったから、多分正解なんだろうな。

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