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2011年3月11日、7年前のあの震災の頃、私は難民になることを薦められた。

今年も3月が終わろうとしている。東日本大震災から早くも7年が過ぎたが、7年が過ぎた今だからこそ、じっくり振り返ることができる物事もある。私はあの震災当時のことを、初めて綴ることにした。

2011年3月12日。フランス人の友人から震災難民としてフランスに逃げて来いと言われた。

地震から一夜明けてようやく繋がったネットを開くと、海外の友人からのメールが殺到していた。「日本はどうなっているの?」「あなたは無事なの?」ふだん私のことなど気にかけていないように見えた友人たちまでが、親切なメールをくれて、私は皮肉にも、大きな災害を通して人の優しさを知ることになった。

私は911の当時をアメリカのサンフランシスコで過ごしていた。私は2000年までニューヨークにいたので、引っ越したばかりのサンフランシスコではまだ知り合いが少なく、友人・知人のほとんどがニューヨークにいた。テロ当時はなかなか繋がらない電話やネットを駆使しながらニューヨークにいる友人たちを探し回っては、彼らの安否を確認した。当時の混乱は私にとって一生忘れられない記憶になっていて、だから311は私にとって人生2度目のパニックだった。311当時はすべてにデジャブ感を覚えていた。電話をかけまくる状況も、不安で心が押しつぶされそうになることもすべて、311は911を私に思い出させていた。

フランス人の友人、ヴェロニックとはニューヨークで知り合い、以来、お互いフランスやサンフランシスコそして日本と、互いの住む場所が離れても友情が続いていた。311の翌日、彼女はチャットで「一週間以内に荷物をまとめて、あなたの家族共々フランスに逃げて来なよ」と半ば命令調の言葉で私に言った。

家族共々って? 一家全員で移住ってこと? 確認すると、ヴェロニックはそうだと答えた。聞けば、フランス政府は、原発が爆発するような未曽有の災害が起きた場合、避難民をフランス国内に受け入れる用意ができているのだと言う。事実、チェルノブイリの時も旧ソ連からの避難民を受け入たという。震災から一夜明けて、フランスではすでに日本人が震災難民としてフランスに流れてくることを想定し、しかもそれを受け入れる準備までしているというのだから、フランスという国の懐の深さや、世界観のスケールの大きさに私は驚かされたのだった。

今振り返れば、じつに的外れな話なのだが、私の住まいは横浜で、被災した人はおろか倒壊した住居さえなかった。しかし放射能の影響という前代未聞の事態に私はどう対処していいのか分からず、当時の横浜の人々の大多数同様に、何もしないでただテレビのニュースを見つめていることしかできなかった。

ヴェロニックはチャット越しに怒鳴り口調になっていた。「ヨウコの国のニュースは情報が遅いのよ。フランスではもうすでに放射能の影響が悲惨なレベル、つまりレベル7まで行くだろうという報道がされているわ」

そう彼女は言った。レベル7など、当時の私には聞きなれない言葉だった。どうやらフランスではニッポンは全滅だといった具合の、終末論的な報道がなされているらしいというのが分かった。まあ、震災からまだ2日しか経っていないから仕方ないのかもしれない。ヴェロニックは日本のメディアは国民に隠し事をしていると言い募っていた。今振り返れば、震災後たった2日で、海外ではすでに日本の報道の問題点を指摘する声があがっていたとは、驚きだった。

「こういう緊急事態の場合はね、ヴィザの心配とかはしなくていいのよ。とにかくみんなで流れてくれば、行政が色々してくれるし、こちらでの生活が落ち着いたら、細かいところは私が面倒見てあげられるし心配ないわよ」

ヴェロニックの説得に私は唸った。正直、家族でフランスに移住することに現実味を感じられなかったし、横浜の町も家も壊れていないのに、自分が難民になるということが大袈裟な話に思えてならなかった。ヴェロニックはチェルノブイリの時も、町が破壊されたわけではないと言った。放射能から逃れるためにきれいなままの町を残して、人々は移住を余儀なくされたのだと。被曝してからでは遅い。フランス政府も日本人を被曝させないために早々に受け入れるつもりだとも彼女は言った。

今となれば呆れるような話だが、当時の彼女の言い分には一定の説得力があった。放射能という経験したことのない事態。一年先に日本がどうなっているのかも分からない。911の時は多くの外国人が母国に帰ってしまった。そして911から半年後にはイラク戦争が始まった。当時の私はまさか自分の学生時代に留学先の国が戦争を始めることになろうとは想像もしなかったが、911から学んだことは、世界は予期せぬ出来事に溢れているということだった。ならば日本だって一年後には多くの日本人がこの国を離れて、避難民として世界各国に散らばっていくかもしれないし、それなら一足早い方がいいかもしれない。良きにせよ悪しきにせよ変化し続ける世界において、日本だけ平穏無事であり続けるだろうか?

そこで実際に移住となると、別の問題が浮上した。私の3歳下の妹は生まれつき障碍者で、車椅子の生活をしている。障碍ゆえに海外旅行も行ったことがない妹が、いきなり難民になれるだろうか? 私はヴェロニックにそのことを正直に打ち明けた。

「車椅子でも大丈夫よ。こちらでは障碍者に対するケアはあるから。難民の中にはもちろん障碍者もお年寄りもいるし、健常者だったのに被災したせいで障碍者になってしまう人だっているでしょう? そういうことも承知の上で受け入れ体制があるんだから、心配することないでしょうよ」

彼女はあっさりと答えた。言われてみればそうだった。911の後イラク戦争が始まって、イラクからEU連合国へ逃げていくイラク人たちが多くいた。お年寄りと障碍者から先にイラクを出て行った。空爆が始まったら自力で逃げられない人達から、国を脱出していったのだった。

それまで気の毒だと思っていたイラクの人々と自分が、突然ぐっと近しい存在になった気がした。

私はいちおう家族にも相談してみた。震災から3日後のまだ日本中がパニックになっていた時期である。近所のコンビニやスーパーは連日、ペットボトルの水を買い占める人々で行列をなしていた。

妹は、毎日通っている障碍者ための作業所をやめたくないからフランスには行かないと言った。所長や友達と離れたくないからと言った。

父は、横浜の方がパリよりも治安が良いだろうと言った。こちらの方がスーパーは24時間やっているし、駅もバス停も近いし便利だろうと。きっと実際は、パリより横浜の方が都会だろうよと言った。近所の公民館で放射能についての勉強会をやるそうだから、それに出たいのでパリには行かないとも言った。(震災当時は、公的なホールでよく放射能についての勉強会が開かれていた)

母はおっとりした口調で、ヨウコちゃんだけパリに行ってきたら?と言った。「難民にならなくても、旅行がてらに行ってきたらどう? 久しぶりにヴェロニックにも会いたいでしょう? あちらのご家族にも良くしてもらったしね」

家族は私の予想通り、のほほんとしたリアクションであった。

そういうわけで、フランス移住はしなかったが、この阿保らしくも必死だった当時のヴェロニックとのやり取りを想うと、今でも深く考えさせられる。

戦争について、震災について、難民について。

イラクもシリアも今も混乱が続いている。311から遡り、2009年にはハイチで大地震が起きた。当時のハイチの人々の間では、こんな皮肉な言葉が飛び交っていた。

「大地震が起きて良かった。これで世界の人々の目が初めて僕らの国に向けられた」

ハイチは世界で2番目の貧困国と言われていて(1位はアフガニスタン)あの地震が来るまで世界はハイチに手を差し伸べてこなかった。そのことを皮肉る言葉であった。

2015年からはシリアから難民となった人々がEU諸国に押し寄せて、その混乱は今も続いている。日本も難民を受け入れるかについての議論が最近ようやく活発になりつつあるが、遠い国から外国人を受け入れるかどうか、という他人事の議論の前に一瞬でも、もしも自分が難民になったら?と考えられたら、見えてくる景色もまた違ってくると思う。

311当時のヴェロニックとのやりとりは、家族以外の誰にも話せなかった。日本から逃げろなどと言ってくる悪友を持っていると、周りから非難されると思ったからだ。震災から数年過ぎた後は、バカバカしい笑い話としてひとり心に留めていた。日本沈没論が当時はいかに普及していたかと思うと、うんざりした。しかし7年が過ぎて初めて話す気持ちになったのは、この話が今ならばもっと広く多くの事例に当てはまるような気がするからだ。フランス人が言う難民と、日本人が言う難民は、同じ言葉でもまったく違う意味を孕んでいると思う。フランスは難民を受け入れてきた歴史を感じると同時に、世界には母国を脱出しなければならない状況に置かれている人々が多くいる。

7年前の私が不謹慎にも、自分も難民になるのではないかと不安に思った気持ちを忘れないでいたい。5年後、10年後、変わりゆく世界と共に、私はあの時の気持ちと共に震災を、世界を、振り返りながら生きていきたい。


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