夕暮れ

平成最後の夏は、コーヒーをよく飲んだ夏だった。



 平成最後の夏、というものが終わろうとしている。暑さはまだまだ続くが、風や、夕暮れの様子は、明らかに秋に近づいていることが分かる。残暑、なのだろうか。晩夏という歌の歌詞が頭をかすめる。「ゆく夏に 名残る暑さは 夕焼けを 吸って燃え立つ はげいとう」、はげいとうの漢字が思い出せない。

今年の夏は、なんとなく、コーヒーの類を去年よりも飲んだような気がする。そんな気がするだけだ。「平成最後の夏は、コーヒーをよく飲んだ夏だった。」そんなフレーズから始まる作品があるとしたらどんな物語だろうか。どうにも陳腐に聞こえる。文才がある作家ならここから物語を始められるのだろうか。


お盆のときに、知り合いとスターバックスで待ち合わせし、そのままコーヒーとケーキを食べながら話をした。田舎町のスターバックスは人ががらがらで、どうしようもないほど、ああ、この場所らしいなと思った。スタバはどこにでもあるのに、都内や地方の大型ショッピングセンターとは違うんだなと思った。

知人とは様々な話をした。私はどうにも、「場所」とか「土地性」みたいなものについて考えざるを得なかった。小学校でいじめられたこと、地元の薔薇園に行ったこと、仕事がハードで新人が辞めたこと、普段地元を離れることはあまりないから、東京に行くときはドキドキするということ、知人からそんな話を聞いた。お互いに話が尽き、しかし決して焦燥感はない居心地の良い沈黙の中で、何かに少し絶望しながら、私は甘ったるいキャラメルラテを飲んだ。

中学時代の友人とも話した。友人はすでに働いている。「自分の好きなことをするということが大切なんだって」と友達は念を押した。私はそれを心に刻もうとした。読書の話になったとき、私の両親は読書をあまりしないから、読書の話ができずに悲しい。ということを伝えた。友達は、私の父は本を読むけれど、私の父の趣味と私の趣味は合わないから本の話はしないと言っていた。

香りの引き立つブラックコーヒーを飲みながら、私は何も釈然としないまま、友達と話し続けた。友達と話すのは楽しかったし、その友達のことは大好きだ。けれど、私の中での絶望感や、もう決して戻れないどこかについてのことや、家族との距離感のようなこと、近づこうとしても、もうその近づき方は前とは違うような気持ちみたいなことをうまく伝えられた気がしなかった。

そして今日、私はキャラメルラテを急に思い立って飲んでいる。さっき友人と電話で話した。大学でいちばんよく話をしたであろう友人が、作家になりたいという。新人賞の候補に入ったそうで、編集もつき、忙しくしているそうだ。私は、心から嬉しく思った。もっと彼女の話を聞きたいと思った。また遊びに行かせてよ、彼女は電話口でそういった。彼女とは、コンビニの食べ物は何が好きかとか、最近の映画では何がおもしろくて、どういう批判がナンセンスなのかとか、そういう話をした。もちろん進路や恋愛の話もする。

私は電話を切ったあと、無心でコーヒーの類を飲みたくなった。市販のキャラメルラテが冷蔵庫にあったので、温かくして飲みたいなと思った。彼女は都心で生まれ、都心で育っている。うらやましいなあと素直に思う。でも自然がないところでほっとできないよなあと単純な自分が脳内でつぶやく。見てきたものも、感じたことも、育ってきた場所も、何もかも私と彼女は違うのかな、と思いながら、レンジであたためたキャラメルラテを飲んだ。

私は地方都市で生まれ、地方都市で育ち、ここを出て違う場所にある大学に行き、そしてまたここに戻ってくるのかもしれないし、戻ってこないかもしれない。

今年の夏、私はコーヒーを飲みながら、このどうにもできないどうしようもなさを、コーヒーにかき消してほしかったのかもしれない。けれど、甘ったるさや引き立つ香りとか言われるものに続いて来る苦さは、どうしようもなさをかき消してはもちろんくれなかった。

夏の終わりと一緒に、このどうしようもなさもどこかに行ってしまえばいいのにと苦し紛れにそう思うけれど、この気持ちはおそらくずっといるだろう。秋も冬も、私はこの気持ちを胸に抱き、人と話しながら、笑いながらも時々絶望しながら、孤独を持て余しながら、何かの締め切りに追われながら、おいしいものを食べたり、人を好きになったり、何もかも投げ出したくなりながら、それでも自分で一歩ずつ自分の現実と自分を生きていくしかないと悟るしかないだろう。私はどこに行くのか、いや、私はどこに行きたいのか、コーヒーを飲みながらひたすらに考えてもいい。

晩夏の歌詞の最後は、「ふるさとは深いしじまに輝き出す」だ、しじまってなんだ。ふるさとってどこだ。私はどこにでも行きたいし、どこにでも行けるはずだ。

秋はすぐそこに来ている。


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