不当な扱いを受けている人を見て見ぬふりをするか問題
善意は常にリスクを孕んでいる
こんなことがあった。
ある晩、僕は女の子と小洒落た中華料理を食べに行った。比較的こじんまりとした店内にはコの字型のカウンターがあり、カウンターの内側にアルバイトの学生が一人いて、奥に厨房があった。厨房はカウンター中央に座った数名のお客からしか見えない作りになっていた。
僕はそれまでに何度も、その店に行ったことがあった。そのお店はご夫婦(もしくは兄妹かもしれない)2人で切り盛りしているようだった。調理のみを担当するとても無口な男の店員さんと、愛想のいい女性の店員さんだった。
その日はたまたま中央付近が空いていたので僕と女の子は案内された中央のカウンターに腰掛けた。僕の席からはギリギリ厨房内が見え、隣に座る女の子からは見えないようだった。
しばらくして、僕は店の様子がいつもと違うことに気がついた。カウンター内にいる学生アルバイトの顔がとても強張っていたのだ。アルバイトを始めて間もないのかなと思ったけれど、どうもそういった類の緊張とは別種のような気がした。そして程なくしてある出来事が起こる。
望まれていない正義
厨房から妙な気配がした僕は、なんとなく厨房を見た。ご主人的な男性が左手を振り上げ平手でもう一人の奥さん的な女性に振り落としていた。男性は4、5回手を振り落とし、女性は腕でガードしながら「すみません、すみません」と謝っていた。アルバイトの学生が強張っていたのはこれだったのだと思った。
恥ずかしい話、僕はあっけにとられて反応できなかった。何度かそのお店に行ったときにはそんなことはなかったし、その2人には一見しておそらく夫婦なのだろうなというような雰囲気があった。その店から危険な気配を感じたことは一度もなかった。
そして僕は彼の⬛きかたに強烈な違和感を覚えた。それはいわゆる頑固親父が気に食わない相手を⬛く行為とはどこか決定的に違う気がした。
上手く言葉にできないし、とても言いかたに気をつけないといけないのだけれど、まるで小さな子どもが駄々をこねてお母さんを⬛くような、(本当にセンシティブな部分に触れると)その男性には何かしら特性があるのではないかと感じさせるような奇妙な⬛きかただった。
どちらにしてもそのような行為は駄目だ。けれど、ここで安直に警察を呼ぶのは違うと思ったし、それを躊躇させる不自然さがあった。
その出来事の10秒後に、女性が料理を持って厨房からこちらにやってきた。彼女は、愛想が良いという表現を遥かに超えた、人間の表情筋が作り出せる最大限の笑顔で僕と一緒に来た女の子に料理を提供してくれた。笑うことで、「これは全然たいしたことではないんです」とでもいうように。
その笑顔を見たときに僕は、あぁ彼女は、この出来事に触れられないことを望んでいるのだろうと直感的に思った。
しばらくして、僕の反対側の席に座っていた、明らかに厨房での出来事を目撃していたであろう2組(4人)が帰っていった。彼らはその出来事に1mmも触れなかった。もしかしたらそれが賢明なのかもしれなかった。
けれど僕には見て見ぬふりがどうしてもできなかった。正義感からではない。自身の特性の混じった性格的に、見て見ぬふりをすると信じられないくらい尾を引いてしまうのだ(実際、数年前に似たようなことがあったときに見て見ぬふりをしたケースを僕は今でも割と頻繁に思い出して嫌な気持ちになる)。悲しいことに、僕はどうやっても何かしら関わりを持たないとケリがつけられずその出来事に囚われて体調を崩してしまうのだ。
けれど、店の女性はきっとそれを望んでいない。だからお会計のさい僕は一緒に来ていた女の子に先に店から出てもらい、アルバイトの学生にだけ声をかけた。確か「大丈夫ですか」だとか「助けが必要だったら言ってください」だとかのミックスだったと思う。学生はほんの少しほっとした表情で「こんなことは初めてです。奥さんが心配なので後で声をかけてみます」と言った。
帰り道、僕は一緒にお店に行った女の子にその出来事を告げた。女の子は「やさしいね」と言ってくれたけれど、正直言ってやさしさではなかった。もちろん優しさの要素はないわけではないが、一番は自分の身を守るためだった。僕はどうやっても少し関わらないと尾を引き、体調にかなり影響が出る自分を知っている。
僕はとても女の子と2軒目に行く気分になれず、キャッキャウフフできる可能性を捨て一人家に帰った。
ーー帰宅後、僕はこころを落ち着かせるため本を読んだ。『流』という小説だった。作中でこんな文章に出会った。
"人には成長しなければならない部分と、どうしたって成長できない部分と、成長してはいけない部分があると思う。その混合の比率が人格であり、うちの家族に関して言えば、最後の部分を尊ぶ血が流れているようなのだ。”
僕の、どうしてもちょっとだけ関わらないと体調に影響が出てしまうところは、きっと「どうしたって成長できない部分」なのだと思う。それと同時にどこかで、これは成長してはいけない部分なのかもしれないとも思う。どちらにせよ、体調を崩しては元も子もないので、これからも自分に合った比率を探すのだろう。
特性を抱えていたり、体調を崩しがちだったりする人は、体調を保つために世間一般の人よりさらに「自分に合った比率」を探す必要があるのだろうな、といつもぼんやり感じている。このエッセイに特にオチはないのだけれど、僕は比率について、いつもぼんやり考えている。
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