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イタリア気質

Amor vincit omnia.
(愛こそ全て/愛が全てを支配する)

どのような国であれ、人はそれほど変わらないとは言いますが、やはりお国柄というものは確かにある、と実感させられた笑い話をひとつ。

つい先日、とあるマダムからうかがったばかりのお話です。


マダムは最近、所用のためお父様とともにイタリアに出かけたそうで、二人ではいささか心もとないところ、幸運にも知人のイタリア語通訳の男性が、旅に途中参加してくれることとなりました。

かねてよりの計画通り、旅はきわめて順調で快適に進み、必要な用もつつがなく終え、早くもイタリア滞在最後の夜です。
今夜は奮発して美味しいものを食べよう、と美味しいリストランテを予約して、三人は歩いてホテルを出ました。

美しい街の夜景を見ながら、旅のあれこれを回想しつつ夢中で話していた時、スピードを落とした小型車が、歩道ぎりぎりまで三人に近寄って来ました。
一番外側を歩いていたのは通訳の男性で、悪いことに、ショルダータイプのバッグを車道側の肩に掛けています。


ここからどんな展開となったかは、言うまでもありません。
後部座席の窓から伸びてきた手が、通訳さんのショルダーバッグを鷲掴みにしました。
バッグの中に入っていたのは、パスポートにお財布に携帯電話、ホテルのキーに明日の飛行機のチケットと、ともかく手持ちの大切なもの全てです。

それをやすやすと奪われるわけにはいかないと、通訳さんはバッグのショルダーを握りしめ、そこから大変な事態に陥ります。
車と並走しつつ、決して手を離そうとしない通訳さんと、同じくあきらめない犯人。後部座席から半ば窓から身を乗り出した犯人は、力ずくでどうにかバッグを引ったくろうと、脅すように何やら叫んでいます。


居合わせた人々は目を丸くして立ち止まり、マダムはいざという時のために暗記した「Chiama la polizia!(警察を呼んで!)」を声の限りに連呼しと、あたりは騒然としてきます。

そんな状況と通訳さんの執念が功を奏してか、犯人はとうとうバッグから手を離し、猛スピードでその場を立ち去りました。

ところが、それがあまりに急だったため、通訳さんは勢い余って歩道に転倒。石畳で頭をしたたかに打ち、額からは血が流れ、運び込まれた病院では手首の骨折と全身の打撲が判明と、散々な有様です。

マダムとお父様は仕事の都合で翌日には予定通りイタリアを旅立ちましたが、通訳さん一人だけが、異国での入院生活のスタートです。


通訳さんはすっかり気分が滅入ってしまい、自分は大丈夫だからどうか退院させてほしい、と何度も頼みますが埒があかず。あなたは怪我人だ、このまま帰国して何かあれば我々の責任に関わる、と病院側は絶対に「Si(わかった)」を言いません。

それでも同じことを執拗に訴えるうち、医師や看護師の態度もますます硬化していくうえ、怪我の回復具合が思わしくないからと、さらなる入院期間の延期も申し渡されました。

もう限界だ、とても耐えられないと焦っても、無断で退院して帰国すれば、莫大な医療費を全額自己負担しなければなりません。
それならばと通訳さんは知恵を絞り、策を練って再び医師に退院を掛け合いました。

すると、今度はすぐさま承諾され、三日後には日本の自宅に戻れたというのです。


「・・・でも、絶対に退院させられないって言われたんですよね?」
「そこは作戦勝ちね」

鷹揚に微笑むマダムに、私は前のめりに尋ねずにはいられません。

「どんな?」
「デートの約束がある、って医者に言ったんですって」

あっけにとられる私に、笑いながらマダムは続けます。

「日本で、最愛の女性が自分の帰りを待ちわびている。もうすぐ大事な記念日だから、彼女とのデートの約束を破るわけにはいかない。そのためにもどうしても帰らなきゃいけないんだ、って。そうしたら、そんな大切なことをなぜ今まで黙ってた、って急にOKが出たそうよ」
「ほ、本当に?」

ほんとに、と大笑いするマダムとともに、私も笑ってしまいます。
あの人、もう70過ぎよ。彼女はおろか、人間の女より猫の方がよっぽど好きなのにね、とマダムは楽しげに暴露もしてくれました。


おそらく、イタリア以外ではまずありえない展開ですし、無理に病院を出てきて良かったのかは気になりますが、拍手を送りたくもなるような、通訳さんの見事な作戦勝ちです。

異国で過ごす最後の夜に、つい気が緩んでお気の毒な目に遭ったとはいえ、最後はうまく乗り切ったのだから良しとしましょう。
この話は今では方々で披露されて人気を博しているそうですし、考えようによっては、きわめて貴重な体験をした、と言えるのかもしれません。

とはいえ、こんな笑い話そのもののオチがついたとしても、旅先で危ない目には遭いたくないもの。
どうぞ、どちらへお出かけの際も、ゆめゆめご油断なさいませんよう。

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