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フィルモア通信 New York

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#仕事

フィルモア通信 New York DUANE PARK CAFE Chef SEIJI MAEDA and RICHARD OVERHOLT  トライベッカの乾杯と死

フィルモア通信 New York DUANE PARK CAFE Chef SEIJI MAEDA and RICHARD OVERHOLT  トライベッカの乾杯と死

セイジさんと仲間たち

 ニューヨークに来て十年目くらいの春か夏、週末は相変わらず忙しいデュエンパークカフェ、誰もが認める本格レストラン、ファインフード、ファインサービスなのにカフェという名前をつけたのはセイジさんが誰にでも親しみやすく気軽にワインや料理を楽しめるようにと、値段も、提供している酒や料理のコスト品質を考えると格段に破格のレストランだった。
 
 グラマシーパークのヒューバーツレストラ

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フィルモア通信 New York Seiji&Huberts going going gone.

フィルモア通信 New York Seiji&Huberts going going gone.

セイジ、ニューヨークタイムス、ぼくらの手

 セイジさんは日本の大企業から在米駐在としてニューヨークにやってきた。そして何年か後アメリカ永住権を取得して会社を辞め、四十歳を前にして料理の道に入った。当時アメリカでは最高峰の料理学校、ニューヨークアップステートにあるCULINALY INSTITUTE OF AMERICA 通称CIAは授業料も高く基本的に全寮制なので除隊補助でもないと自力でやるしか

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フィルモア通信 No18 バルベドス、アリア、ニューヨーク市警二十三分署

フィルモア通信 No18 バルベドス、アリア、ニューヨーク市警二十三分署

バルベドス、アリア、ニューヨーク市警二十三分署

 ヒューバーツレストランには異なる多数の人種、言語そして文化を持つ人々がそれぞれの仕事についていた。なかには複数の言語を話しその父母からそれぞれの国の文化や習慣を持つ人もいて、出身国がちがうカップルなども独自の価値観を見出していたりと、ニューヨークの様々な分野の多様性は簡単には理解出来ないものがあり、何も知らないぼくは毎日驚いたり、不安になったり、

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フィルモア通信 New York No21    アダム

フィルモア通信 New York No21    アダム

アダム ヤウク

 レンが自分の息子のマシューと一緒に若い男を連れてきて、ぼくらに紹介した。アダムはマシューの通う高校の同級生でふたりとも卒業目前とのことだった。ぼくにはよくわからなかったがアダムは卒業するには何かが足りないらしく社会参加かなんかのクレジットが必要とのことでヒューバーツレストランで見習いの仕事をすることになったらしかった。
 17歳か18歳だかのアダムはしっかりした体つきに繊細な表

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フィルモア通信 New York No20 solitary man

フィルモア通信 New York No20 solitary man

solitary man 

独りで過ごす夜の長さがつらいときもあった。

 レストランで仕事をしているときは自分の考えを必死にクルーに説明し、どうする事がベストの皿に料理できるか考えた。素材の事を考え他者の味覚の事を考えた。

 深夜寝る前に頭に浮かんで来た茄子、どうしようこうしようと想像して朝になり起き上がって、そのまま夜通し空いているコリアングロサリーで茄子を買い、ヒューバーツのキッチンに誰

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フィルモア通信 New York No17     流れる水

フィルモア通信 New York No17     流れる水

流れる水

 天ぷらの修業のつぎは鰻の捌きを覚えようと思い立ち、中央市場の老舗の川魚店に見習いに行くことにした。
朝四時からその捌きは始まり、六時には終わるのでそれから仕事に行くことになった。その川魚店には鰻捌きの名人と言われる人がいて、多くの京都の料理屋がその名人の捌いた鰻を仕入れに来ていた。

 名人は初老の痩せた男で、子供の頃からこの道一筋らしく、まな板の位置と右手の包丁使いの動きに合わせ

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フィルモア通信 New York No16 五十年の鰻、十六歳の天ぷら

フィルモア通信 New York No16 五十年の鰻、十六歳の天ぷら

五十年の鰻、十六歳の天ぷら
 ソーホーのミキオさんのその店は昔、映画ゴッドファーザーの原作者、マリオ・プーゾが彼の著作を書いていたこともあるという静かな下町のイタリアンカフェを日本料理屋に改装した、オーナーのミキオさんの美的センスが座布団やメニューブックの造りに顕れている、地元ソーホーのギャラリーオーナーやアーティストそしてミュージアムのキューレーターたちが通ってくる小さな日本レストランだった。

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フィルモア通信 New York No11 マーサとジョージワシントンの亀のスープ

フィルモア通信 New York No11 マーサとジョージワシントンの亀のスープ

 ヴァレンタインデーのメニューはアメリカの歴史上の有名人の恋人たちが愛した食べ物をとレンがアイデアを出してきた。ジョージ・ワシントンは妻マーサのために彼女の好物であった亀のスープを作ったとレンは話し、これをメニューに載せようということになった。
 
 ぼくはその亀というのはウミガメじゃないの、と訊いてみたがウミガメは保護しなければいけない動物で食材じゃないと、みんなは言った。
 
「普通のタートル

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フィルモア通信 New York  No10     牛ヒレ丸ごと1本

フィルモア通信 New York  No10     牛ヒレ丸ごと1本

 レンとピーター、そしてぼくらが働くシフトが組まれたある夜、最初の混み合う時間にアペタイザーを出し終わり、レンとピーターがメインディッシュの準備に忙しい間、ぼくはダウンステアーのプレップキッチンに降りて行き、昼の間にニーナが下拵えしておいた明日の予約のランチパーティーに出すビーフウェリントン用のテンダーロインを手に取った。
 

ビーフのことはあまり知らなかったし、テンダーロインはアメリカでも高価

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フィルモア通信 New York No6  アメリカの夜 

フィルモア通信 New York No6 アメリカの夜 

 ベトナム戦争時の外交補佐官だったドクター・ヘンリー・キッシンジャー氏のパーティーがあったのは、とても冷える冬の夜だった。
 
 そのパーティーのために作ったラムのローストミント風味、胡瓜と海老のシェリーサラダ、ブルーチーズのスフレなどを次々とダイニングルームへ送り出し、オーブンやスチーマーはうんうん、シューシューと働き、
背の高いシャンパングラスが音をたててキッチンに運び込まれたりするなか、オー

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フィルモア通信 New York 80’s No4

フィルモア通信 New York 80’s No4

 九月のとても暑い日、JFK空港に着いた。次の日からまたヒューバーツレストランとニューヨークの生活が始まった。
 
 レストランの経営は厳しかった。オーナーの望む料理は他のレストランの誰も作っていない新しい料理でアメリカの特にニューヨーク近郊の農産物を使ったシンプルで健康に配慮した伝統的なアメリカの地方料理をエスニックのスパイスや新鮮なハーブを使って伝統をリメイクするという、ぼくにはまだよくわかっ

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フィルモア通信 New York 80`s No3

フィルモア通信 New York 80`s No3

 ヨーロッパには四ヶ月いた。たくさんの若者たちと知り合った。今から兵役に行くスペインの二十歳の男、イスラエルの女の子二人もこれから兵役に就くと言っていた。ドラッグを持ち歩くスウェーデンの若者、どこもかしこもドラッグだらけさ、お前もやるかと聞かれた。

 アイルランドでヒッチハイクをした時は家まで食事によんでもらい、神の恵みについて話してもらった。列車の中で知り合ったり、コンサートで知り合ったして、

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フィルモア通信 New York 80`s No2 旅は続く。

フィルモア通信 New York 80`s No2 旅は続く。

 ニューヨークに着いた。ソウルとアンカレッジ経由のコリアンエアラインは混み合っていてタバコの煙とおそらく韓国製のカップ麺と赤ん坊のおしめの匂いとがむせ返るように機内に立ち込めていて、妙に安心な感じがした。

 もっとずっと後にクリスマスシーズンにシアトルからポートランドへとグレイハウンドバスで旅した時に車内には数人の若い学生と黒人ファミリーがほとんどでバスのなかにたちこめるオムツとホットドッグ、フ

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フィルモア通信 New York  80's 雲の上は初めて見た。

フィルモア通信 New York 80's 雲の上は初めて見た。

 今日も陽はたかく、乾いた風が吹く。誰もいなくなったレストランの窓を開け、ぼくはテラスに出る。 

 鉢に植わった咲き零れるペチュニアの萎れた数輪を指先で摘む。こうすると残った花たちはまた息を吹き返して元気になる。風が匂うようだ。さっきまで昼食で満員だったレストランのダイニングルームを窓越しに見る。人影も無いテーブルや椅子に陽光が射して静かだ。

 あと二時間もすると夜の開店だ。オーブンにはロース

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