フィルモア通信 New York DUANE PARK CAFE Chef SEIJI MAEDA and RICHARD OVERHOLT トライベッカの乾杯と死
セイジさんと仲間たち
ニューヨークに来て十年目くらいの春か夏、週末は相変わらず忙しいデュエンパークカフェ、誰もが認める本格レストラン、ファインフード、ファインサービスなのにカフェという名前をつけたのはセイジさんが誰にでも親しみやすく気軽にワインや料理を楽しめるようにと、値段も、提供している酒や料理のコスト品質を考えると格段に破格のレストランだった。
グラマシーパークのヒューバーツレストランにブライアン・ミラーの絶賛記事が掲載された後レストランはてんてこ舞いの忙しい日々が続いたそれは一年以上も続きヒューバーツはニューヨークレストランビジネスのマガジンにエスタブリッシュメントと記載されるようになった。レンとカレンは結婚して二人の間には女の子が生まれた。
毎日続く満席のレストランはキッチンクルーの人手も足らなくなったが、全米のあちこちから若い人たちがヒューバーツレストランに職を求めてやってきた。カリフォルニアやオハイオなどから野心もあり才能もある若い人がキャリアを求めてやってきた。
その人選はレンとぼくがやった。あなたたちと仕事がしたいと話すひとの英語がわからず試しにキッチンで一緒に仕事をしてみると話すほどにはその手に熱意も集中力もなかったり、手が荒っぽかったりした。ぼくが言葉がわからないからこそなのかもしれなかった。多くの若者が来て、去った。男も女もいた。有名シェフになる、レストランビジネスで成功するという熱狂がキッチンに満ちていた。
みんな新しいものを掴もう、スキルを磨こうと自分のキャリアの向上だけを気にするように思われた。しかしデュダックやセイジさんは若い人たちと冗談をかわしデュダックは黙々といつものようにパンを仕込み、焼きつづけ美しいデザートを毎日ぼくらに見せてくれた。
しかし、気づかないうちにダイニングルームもキッチンの料理もお客のためにではなく売り上げのために働いているようになっていった。
そのころのニューヨークレストランでは日本食やスシバーといわれる高級寿司店がぞくぞくとオープンしていた。フルトン魚市場には日本の卸業者も鮨だねになるようなロングアイランドやケープコッドから水揚げされた新鮮な魚を志のある日本人寿司店に下ろしていた。
ぼくはソーホーのミキオさんの店にいた頃からその魚卸業者と知り合いになっていたのでヒューバーツにも取引してもらえるように頼んだ。言葉の問題はぼくが連絡を取り持つ、というと相手の社長は自分たちもニューヨークのフレンチレストランに事業を展開したいので英語も頑張りますと応えた。
しばらくしてアップタウンやダウンタウンのフレンチや野心的なアメリカンレストランからそのシーフードサプライを周回して欲しいと電話がかかってくるようになった。そして半年くらいでマンハッタンの高級フレンチの店は日本人サプライヤーの扱う魚が主流になった。
毎日毎日ぼくは魚を下ごしらえした、ぼくより若い料理人がじっと手元を見ていた。質問には応えなかった。ぼくは質問に応えたり自分が聞き返すと英語のレッスンのようになり仕事がはかどらないのだった。いままではピーターやスーザンやキャサリン、ニーナがぼくの話すことや質問に応えてくれていた。いまはぼくが仕事の内容やぼくには理解できない質問を投げてきたひとの相手をするのだった。ぼくはただ魚を捌き、野菜を細工に切り、ソースを合わせ、デュダックが教えてくれたいくつかのデザートやパンを捏ねスフレを泡立て焼いた。
ぼくの心は荒れていた、ぼくは独りだった。セイジさんは優しくぼくの話も聞いてくれて二人で深夜のレストランに食事に出かけたりしたが彼には自分の店をオープンする大命題があった、そしてセイジさんは大人だった、ぼくの気持ちに深入りすることはなかった。
仕事おわりにみんなで地下鉄の駅まで歩き通行人と言い合いになったりけんかしたりした。
ぼくはナーバスでハイテンションと人から言われるようになった、ぼくは寂しかった。
たまにピーターが電話をよこしぼくの様子を聞いてきて、ぼくはタクシーに引かれそうになったので靴を脱いで走り去るタクシーのバックに靴を投げつけた、というようなことを言うと、マサミおまえは死ぬ、ここはニューヨークだおまえはいつか必ず死ぬ、やめろ。と返した。ぼくは荒れていた、チャールスが死に、パットが死んだ。若いウェイターを殴り、シップリアンもいなくなった。フレディはプロモートされもっといい給料のレストランへ移っていった。
ヒューバーツは有力な数人の投資の対象となりアップタウンへ移転することになった。ミリオンという額のドルが集められパークアヴェニューの一等地ビルに新装開店することになった。アダム・タハニーがデザインしジェフリー・ビーンがインテリアやファッションを担当した。ぼくはメニュー開発担当の責任者となった。
セイジはトライベッカにいいレストランを見つけた。小さなフレンチレストランで赤いカーペットという名で長年営業を続けた店だった。アップタウンにヒューバーツが引っ越す前にセイジさんは去っていった。セイジさんは自分の店がオープンしたら必ずあなたを迎えに来ると言った。それは二年近くも先のことになった。
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そしてぼくはニューヨークに来て十年目くらいの春か夏、忙しいセイジさんのレストラン、デュエン・パーク・カフェにいた。セイジさんは相変わらず力強い手でぼくを迎えてくれ、昼夜キッチンに立って猛烈に働いた。
セイジさんのメニューは東海岸を自分で探索したあとニューヨーク人に合うものはということで、新鮮な魚介と最高品質のアンガス牛のリブアイステーキ、ヴィールと呼ばれる子牛のロースト、こぶりのイカのフリットフレッシュなパプリカのローストソース、そしてスケートウィングのフィレのクリスピーなソテーにポン酢というような伝統と革新が調和した、その頃台頭してきたヤッピーや若いビジネスピープルたちの話題になるメニューだった。
デュエン・パーク・カフェはデュエンストリートの古いコンドミニアムの一階のアイリッシュグリーンのドアを開けるとすぐ左に大きな花が飾られたバーを通り左右に客席が分かれ中央のその通路の先に二つのドアがあり入り口と出口に分かれていた。出口のドアには小窓がありそこから客席をある程度見渡すことができた。
キッチンには、セイジさん、セリーロ、レナート、ぼく、セイジさんの見込んだ若いスーシェフのリチャード・オーヴァーホルトがいた。リチャードはカレッジを卒業するとオハイオからニューヨークにやってきた。教会でパイプオルガンを弾いていたという静かで進歩的な考えのハンサムな若者だった。
リチャードは慎み深いアメリカの青年だった。彼とちょっと話せばすぐに好感を持つことができた。そしてセイジさんが言うにはリチャードにはいい味を探り出すパレットと呼ばれる味覚の受け皿を持っていた。それは料理を作る上での大事な才能だった。ぼくは少しだけリチャードに嫉妬した、彼の味はアメリカ人の味覚に訴えることが出来た。ぼくは日本というバックグランドのおかげ、ある種のオリエンタリズムのおかげでニューヨークのグルマンというような人に評価されただけだった、それを自覚しぼくは苦しかった。
たぶん初夏の蒸し暑い金曜の夕方、予約でいっぱいのデュエン・パーク・カフェにお客さんが入り始め満席のなかのぼくらのキッチンの小窓から見えるバーに一番近い入り口に一番近い三人がけのテーブルでシャンパンの乾杯が始まった。ダイニングのテーブルはレストランの出入り口をむくか、キッチンの出入り口を向くかなので通路に面したテーブルのレストランの出入り口の方しか見えない数人の椅子席の人以外はバーの前の通路は見えない。
三人がけのテーブルで始まったシャンパンの乾杯は一人の女性の胸を抑えうずくまる仕草で中断された。あとふたりの男性は女性とその日初めてのビジネスミーティングで知り合い、ニューヨークのナイトライフを案内するという女性と先ずは話題の素敵なレストランで乾杯ということで此処に来たらしかった。女性は心臓に問題があり万が一発作が起きればカバンに常備したニトログリセリンか何かの薬を飲めば収まったかもしれないが初対面の男性たちには知る由もなかった。
その女性はうずくまったまま何も話せない状態なので、バーテンダーやサービスのクルーたちがバーの横のカウチまで抱きかかえて彼女を移動してもらった。満席のお客さんたちのうちでその光景を目撃したのはダイニングルームの構造上数人だけだった。しかしお客さんが気分が悪くなって席を移動することなんかはしょっちゅうあることなので誰も気にしなかったらしく、レストランは週末らしく、笑い声と熱気と交わされる愛の言葉で満ちていた。
やがてクルーがよんだ911の救急車が到着しうずくまった女性を床に寝かしAEDの電気ショックが女性に試みられた。女性は器具を当てられるとわずかに体を反らせた。何回か繰り返されたが女性はもう動かなくなった。入り口近くのその光景を見ていたはずのお客さんたちはその時なにも言わなかったか、いってもAEDがすでに施されているひとになにも助けになることはできないと考えたのか、楽しいテーブルに悲劇を持ち込むことをさけたのか、だれにもわからない。
しかしぼくらは見ていた。次々に入るオーダーを読み上げ鍋を振りながら、ソースをかけまわしながら女性の回復を願う気持ちでいっぱいだった。楽しく過ごし生きることの糧を得るためのレストランで目にした他人の死だった。救急車は女性とともに去り混み合ったダイニングも最後のデザートが運ばれる時間になり、開けられたワインやウィスキー上等のアルマニャックの瓶をかたずける音がキッチンにも聞こえてきた。
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