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フィルモア通信 New York 80's 雲の上は初めて見た。

 今日も陽はたかく、乾いた風が吹く。誰もいなくなったレストランの窓を開け、ぼくはテラスに出る。 

 鉢に植わった咲き零れるペチュニアの萎れた数輪を指先で摘む。こうすると残った花たちはまた息を吹き返して元気になる。風が匂うようだ。さっきまで昼食で満員だったレストランのダイニングルームを窓越しに見る。人影も無いテーブルや椅子に陽光が射して静かだ。

 あと二時間もすると夜の開店だ。オーブンにはローストが入っていて、野菜の水洗いも済ませた。今夜も人々はここに来るだろうか、
ぼくらの願いが届くだろうか?

 ぼくが大阪に来てこの店を開けてもうすぐ二年になる。大阪に来る前はカリフォルニアの農場にいた。二十二年前ニュ–ヨークに来てアメリカでの生活が始まった。

 マンハッタンのソーホーというところに住んでいた。初めてこの街に来たとき、誰も日本語を話す人を知らなかった。英語はほとんど解らなかった。いつもサンキューと言っていたような気がする。YES, NOというときの考えの難しさ、厳しさをかんじたのもその頃だった。

 高校を出てから親といっしょに暮らし、日本料理屋、中華料理屋、中央魚市場などで働いていて十年目に初めて独りになったアメリカだった。

 料理は好きだったが、日本料理界の閉鎖性や人間関係に息苦しくなっていた自分はよく仕事先を変えていた。いろんな人を師匠としたが満足はできなかった。その人たちの料理や芸には感心して、自分もそうできるようにと思うけれどその生活ぶりや精神性には疑問を感じていた。

 師匠たちは可愛がってくれて、その芸をよく教えてくれもしたし、自分もまねたが、しばらくすると他のところへ、他の人へと心が動いて同じところにいなかった。仕事はよくするが落ち着かない奴だといつも言われたがどうしようもなかった。

 父が死んで心に風穴が空いたようになっていた次の年、世界を見てみたいと思い、ニューヨークからヨーロッパをめぐる旅行をしようと思い立った。父が亡くなったばかりなのに母をおいて家を出て行くのは苦しかったけれど、母も兄も行けと言ってくれた。

 『お前は水のように流れて清くあればいい。停まっていればくさるだろうから』と、
父が遺してくれた言葉を抱きしめて、飛行機に乗った。

  

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