見出し画像

フィルモア通信 New York 80’s No4

 九月のとても暑い日、JFK空港に着いた。次の日からまたヒューバーツレストランとニューヨークの生活が始まった。
 
 レストランの経営は厳しかった。オーナーの望む料理は他のレストランの誰も作っていない新しい料理でアメリカの特にニューヨーク近郊の農産物を使ったシンプルで健康に配慮した伝統的なアメリカの地方料理をエスニックのスパイスや新鮮なハーブを使って伝統をリメイクするという、ぼくにはまだよくわかっていなかったけれど、これがニューアメリカンキュイジーンと呼ばれる料理の先駆けだった。

 ぼくは勧められるままにジュリアチャイルドやクレッグクレイボーン、ジェームスベアード  の本などを読んで理解しようとした。
 
 経営状態のなかぼくを正式に雇い、結構良いサラリーをくれた。他のキッチンクルーもぼくを迎え入れてくれた。オーナーはぼくに魚料理とコールドステーションのポジションを任せてくれた。

 自分のレストランのエグゼキュティブシェフでもあるオーナーのレンはメニューの組み替えの時にぼくを呼び、新しい皿を考えろ、
おまえの料理を店に出す、と言うと、店のラインクックやプレップクック、ぼくらはレンといっしょに試作をしてはメニューに入れていった。

 日々のクルーたちの食事は自分が作っていた。いろんな人種の文化的背景を持つ料理人たちに自分の料理を食べて反応してもらうのが楽しみだった。 

 ぼくが考えた料理を出し始めるとだいたいお客には好評だった。東洋風にアレンジした新鮮な海の幸という事で高い料金を払って来てくれる人たちには、ジャクリーン・オナシス夫人やアンディ・ウォホール等のほかに、ベニー・グッドマン、ポール・ニューマンとぼくの大好きな人たちがいた。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?