フィルモア通信 New York 80`s No2 旅は続く。
ニューヨークに着いた。ソウルとアンカレッジ経由のコリアンエアラインは混み合っていてタバコの煙とおそらく韓国製のカップ麺と赤ん坊のおしめの匂いとがむせ返るように機内に立ち込めていて、妙に安心な感じがした。
もっとずっと後にクリスマスシーズンにシアトルからポートランドへとグレイハウンドバスで旅した時に車内には数人の若い学生と黒人ファミリーがほとんどでバスのなかにたちこめるオムツとホットドッグ、フレンチフライの混じり合った匂いに安心したのと同じ感覚だった。
ヨーロッパに行くまで、ニューヨークの日本料理屋でアルバイトをすることにした。アパートに近いお店で皿洗いのパートとして働くことにした。慣れてくると店の板前に料理を教えるようなこともした。
フランス料理屋のオーナー夫妻に出会ったのは、店ですりこぎの使い方を若い料理人に見せている時だった。カウンター越しにじっとぼくらを見るその人は誰かと聞いたら、今ニューヨークで結構評判の新しい料理を出すレストランのオーナーだということだった。その場で、その店で働こうと決心して、自分はあなたの店で働きたいとウエイターに伝えてもらった。
パークアヴェニュー、二十二丁目、グラマシーパークの裏にある「ヒューバーツ」レストランは、そのオーナー夫妻の人柄と料理の新鮮な素材とメニューの斬新さ、雰囲気の良さなどで、成功した芸術家やファッションデザイナーなどに好まれる小さな店だった。ニーナという女の子がシェフだった。キッチンにはスーザンとキャサリンがいてラインで働いていた。ニーナはフィンランド人で髪は淡いブロンド、目はアーモンドの縁取りにスオミの湖のように青かった(スオミの湖を見た時ニーナの瞳を思い出した)。
ぼくは朝からヒューバーツで見学を許され、ランチが終わるまでみんなの手伝いをしたり、魚の下処理を任されたりした。ランチが終わり、片付けが済むと夜の皿洗いの仕事を日本料理屋のあるソーホーまで歩いた。数ヶ月がとても早く過ぎ、だんだんヒューバーツでの時間が増えてきた。少しずつ少しずつ言葉が自身の内で溶け出し、周りの人たちの言っていることが感じられるようになって来た。
ニーナはぼくをて招きしてよく言った。「マサミ、野菜を茹でる時はやさしくやさしく、そして野菜らしくあるように」。ヒューバーツではすることは山ほどにあった。メニューのひと皿ひと皿を吟味して仕込みをすると自分たちの食事時間もなかった。
ヒューバーツで働きだしてから四ヶ月くらいが経っていた。そろそろヨーロッパへ行きたいとオーナーに言うと、今まで働いた分の金をくれた。スーザンやキャサリン、ほかのキッチンクルーたちみんなでぼくに食事を作ってくれてヨーロッパから戻ったらまたヒューバーツにおいでといってくれた。
オーナー夫妻はぼくにセイコーの腕時計とスイスアーミーのポケットナイフを渡して、「Good luck, see you soon.」と言った。
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