フィルモア通信 New York No16 五十年の鰻、十六歳の天ぷら
五十年の鰻、十六歳の天ぷら
ソーホーのミキオさんのその店は昔、映画ゴッドファーザーの原作者、マリオ・プーゾが彼の著作を書いていたこともあるという静かな下町のイタリアンカフェを日本料理屋に改装した、オーナーのミキオさんの美的センスが座布団やメニューブックの造りに顕れている、地元ソーホーのギャラリーオーナーやアーティストそしてミュージアムのキューレーターたちが通ってくる小さな日本レストランだった。
ミキオさんはぼくと同年でかれは画家だった。ニューヨークに初めて着いたその年、ぼくは仕事を探して歩き回り、自分のロフトから遠くないこの店に飛び込んでオーナーであるミキオさんに面接してもらい、夜のシフトに調理場で雇ってもらった。
店の料理人たちは若く仕事の経験も浅い人たちだったのでぼくは雑用をこなしながら調理のアドバイスもしたりしていた。ある日お店に来たお客さんがメニューには無い、鰻の蒲焼が食べたい、という注文があった。店では前菜なんかに使うパックされた鰻が空輸されてあった。それをそのまま温めても美味しくないので、うな重や蒲焼のひと品としては出していなかった。
蒲焼が食べたいと言ったお客さんは子供の時に鰻の蒲焼を食べたきり日本を離れ、以来鰻を口にすることなく今夜のミキオさんとの会話の中で鰻への思いが募ったようだった。ミキオさんは皿を洗っていたぼくのところに来てうな丼作ってくれないかな、と言った。
はい、と返事をするとぼくはパックの鰻をそのままぬるま湯で温め、中身を取り出し、出刃包丁を寝かせて軽く鰻をなぞるようにたたいて霧吹きで水分を足し、オーブントースターでそのまま身と皮を炙ってから取り出し、鰻の頭と尻尾の先を酒と醤油そしてパックのタレと一緒に煮詰めそれを鰻に何回もかけて身と皮を炙り焼いた。
ご飯に霧吹きして温め直し、焼き上がった鰻を乗せてタレを掛け回し、お客さんへ運んでもらった。しばらくしてミキオさんがキッチンに入ってきてぼくを呼び、鰻を食べたそのお客さんの喜びようを話してくれた。
自分は五十年日本に帰っていない、子供の頃食べた鰻はもう味わえないと思っていたが、今日ここで鰻を食べられてとてもハッピィーだと、何度も言っている、とのことだった。ぼくは洗い場の暖簾の陰からそのお客さんの顔を見ようとしたが混み合う客席のなかに
その人を見つけることは出来なかった。
アメリカに行くずっと前、ぼくはデパートの地下の和食の店にいた。鰻と天ぷらそしてお刺身定食やお子様ランチもあり、週末には買い物客や親子連れで満席になった。ぼくは習い覚えた天ぷらを任されていて近所から来るオフィス街のひとや買い物の常連さんが天ぷらを食べに来てくれていて、自負するものがあった。
しかし、常連の中年女性が友人をここへ連れて来て、「ここの天ぷらほんとに美味しいのよ」と言って席に着いた時、キッチンのドアが開いて天ぷらを揚げるぼくを見てしまうと、がっかりしたような顔を二人で見合わせた。いつもの天ぷらをこしらえそのお客さんへ運ばれたが、二人は黙って食べ少し残して機嫌悪く帰って行った。どうもいつもはもっと美味しい天ぷらだけど今日は若い見習みたいなお兄ちゃんが自分たちの天ぷらを作ったので怒って帰ったみたいだった。
何時もと同じ天ぷらを一生懸命揚げるだけだった、仕方なかった。
ある日、店に車椅子に乗った少女と母親の二人が入ってきた。そのお母さんが言うには娘は外出もあまりしたことはなくお店で食事するのは初めてですが、今日はここで食べてみたいというので入って来ました、何か作っていただけますか、と少女が食べられない食材のリストをぼくらに渡し、お願いしますと言った。
渡されたリストを見てぼくは彼女に天ぷらを食べさせてやりたいと思い、新しい油を鍋に入れ替えて、野菜を切った。サツマイモ、ナス、カボチャのほかには彼女の食べられるものは店にはなかった。ちょうどその日、まかない食事で僕らが食べるつもりだった、堀川牛蒡を牛すじ肉と一緒に煮込んだ鍋が出来ていて、よし、これだと思いしっかり煮込まれて重たくなっている牛蒡を取り出し水分をよく拭き取って粉をまぶし衣をつけて揚げ鍋に入れた。
いい匂いがしてきて、こんがりと揚がってきたのを他の野菜の天ぷらと一緒に盛り付けて親子の待つテーブルに運んでもらった。その後店はだんだんと忙しく込み合い始め、ぼくは重なる天ぷらのオーダーをこなし、海老や魚、野菜を揚げ続けた。いつものように、粉と油の混じった汗を拭きながら、ランチが終わると店長が、あの親子はとても喜んで帰った。
母親が言うには、娘があんなにご飯を美味しそうに喜んで食べるのを見るのは本当に久しぶりだし、自分もとっても美味しくて感激しました、とのことだった。その娘は十六歳でもうずーっと車椅子の生活が続いているらしかった。ぼくはそのとき、天ぷらの修行をしていて良かったなと思った。二年通って天ぷらを教えてもらった師匠の顔が見えたような気がした。
その日から、ずーっと毎日料理をしていて時々スランプのような、言いようのない重い気持ちになると、その日のことを思い出した。ぼくたちの自分や料理への疑い、迷いだとか不安なんかは大したことじゃない、自分の手と足と頭を振り絞って良いものを作ろう。
自分たちの料理がひとの身体に入り、自分が作ったものがひとの喜びとなるのだから、ぼくらの心がとどくのだから、と。
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