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伊藤緑
2020年2月6日 12:11
一 恭介《きょうすけ》のほっぺたをぶったとき、かじかんだ手がしびれました。青白いほっぺたは、ほんのりと赤みを帯びて。 神社へと続く石段に座っていたわたしたちの頭上から、杉木立の、葉ずれの音が降ってきます。白い息に隠れるように、幼い瞳がわたしを見上げてきて。木漏れ日が、骨張った手や、色の悪い唇の上でちらついて。セーラー服の上に羽織っていた灰色のコートの裾を、わたしはぎゅっと握り締めました。「
2020年2月29日 20:41
野原の、少し高い場所に立ち、沈んでゆく太陽へと目を向けたら、そばの山が、うんと暗く、濃く見えて。どこまでも広がっている、枯れたススキの揺れる穂先には、火が淡く、点っていて。雲ひとつないこがねの空から、冷たい風が落ちてきます。流れていく、薄い呼気。草の香りと、水を吸った土のにおいが、ふわりふわりと、舞い上がりました。 響くのは、炎の波音。小鳥の声。指の先からは、心音が。燃える光が、右から左へ、
2020年2月20日 18:35
僕は太宰になりたい。私は谷崎みたいになりたい。自分は。あたしは。 そうやって、誰かになりたい、誰々みたいに書きたいと言ってものを綴る人の態度が、私は嫌いでした。 その誰かはもう存在するのに、そんな誰々になって、いったいどうするんでしょうか。それにそもそも、その誰々と同じように書くなんてことが、本当にできるでしょうか。自分はその誰かではありません。同じように綴ろうとしたって、それがなんでし
2020年2月24日 20:01
畑の脇の、まだ幼いびわの木の下で、仰向きにそっと寝転がったら、枝葉の網に、青い空と、きらめく雲がかかっていて。滴り落ちてくる影と陽光で、果実が濃く、濡れています。風が吹けば、暖かい色の息遣いが、よく見えて。右手をお腹に乗せれば、自分の呼吸とびわの揺れが、重なり合って。見つめていたら、分かれた幹のあいだの、クモの巣の淡い銀に、まつ毛の先が、触れました。 まぶたを閉じれば、緑の波音。ひざを曲げれ
2020年2月5日 19:02
子を愛さない親はいない、なんて言うけれど。 だったらどうして、虐待される子どもがいるんですか。まさかそれも愛情だって、そう言うんですか。青アザも、やせ細った体も、放置された虫歯も、否定する言葉も、呼ばれない名も、売られた性も、止まってしまった呼吸もすべて、すべて親の、子に対する愛の形だって。 そんなものは例外だ、そういうやつらは親にふさわしくない人間だっただけで、普通の親は、誰もが子ども