誰々みたいに書きたい

 僕は太宰になりたい。私は谷崎みたいになりたい。自分は。あたしは。

 そうやって、誰かになりたい、誰々みたいに書きたいと言ってものを綴る人の態度が、私は嫌いでした。

 その誰かはもう存在するのに、そんな誰々になって、いったいどうするんでしょうか。それにそもそも、その誰々と同じように書くなんてことが、本当にできるでしょうか。自分はその誰かではありません。同じように綴ろうとしたって、それがなんでしょう。誰も太宰にはなれません。谷崎のようになんて、紡げるはずがありません。三島なんて再来するはず、ないんです。彼らの書いたものは、彼らにしか書けないんですから。

 ただ憧れているだけだから。なんて返しも、私は好きになれません。誰かに憧れながら書いてどうするんですか。そこに、自分との対話はありますか。別の誰かを見ながら、自らと、実感と、本当に向き合えるんですか。憧憬に浸りながら書いたものは、あなた自身の言葉なんですか。そう言いたくなるんです。憧れながら綴ったとき、その言葉は、あなたの言葉のままでいられますかって。

 影響を受けることと、憧れることは違います。憧れるとはつまり、自分を捨てて、他人になり代わろうとすることです。だとしたら。結局、書きたいことなんてないんです。ただ、太宰のようだと言われたいだけ。芥川って凄いよね、と同じレベルで、自分が凄いと言われたいだけなんです。川端康成が書いたものと同じくらい、美しいと評されるものが作ってみたいだけなんです。日本語を書くことならできるから、だからそれで、ちやほやされたいだけなんです。太宰の生まれ変わり、平成の漱石、令和の芥川。そんなラベルを、周囲から貼られてみたいだけなんです。だから憧れる。だけど憧れているだけで、形ないものを形ないもので編みたいわけじゃないから、編まずにいられないわけではないから、書き続けられないし、そもそも書かない。書こうとしない。書けなくなったとか、簡単に書けたものは偽物だとか、書くことは大変なことなんだとか、魂を削っているんだからとか、あれこれ言い訳して、書かない。創ろうとしない。経験しなくちゃとか、本をたくさん読まなければ、なんて言って、別のことをやり続けながら、ただ憧れだけを抱いて、ときに悶々として、他人のものを読んで歯ぎしりするだけ。書けたとしても、それは媚びと、虚飾と、血肉になっていない単語の羅列で。

 だから嫌いなんです。誰々になろうとするその態度が。自分ならその誰々になれると、なり代われるんじゃないかと、心のどこかで思っているその態度が。誰々のあの作品みたいに書きたい、というのだって、同じことです。憧れてはいけないんです。それは、決して捨てられないものを、捨てようとすることなんですから。自分自身から、目を背けてしまう態度なんですから。

 私は、思わずにはいられないんです。 憧れの作家は、もの書きは誰々だなんて、そんなことを平気で言える書き手なんて、嘘だって。

                               (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?