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しあわせの中に、悲しみひとしずく。

かなしみがぽつんとやってきたときに限って、
幸せだった時を思い出すものだなって
思いつつ。

ほんとうはしあわせのなかに、みえないけれど
かなしみがちょっとだけ土の中の雨水のように、
ふくまれていたのかもしれない。

<ねぇ? とかいってみたくなるこのごろなの>

それは透のかなしみなのか栞じしんのものなのか、
もう誰のものでもないような。

腕を上げて伸びをしたとき、透が着ていたTシャツの
ホワイトビーズの香りが漂ってくるのがわかった。

<栞はひとりじゃないとか、いわないでよ>

明日着てゆくインナーを探そうとクローゼットの
中をごそごそやっていたら、すっごいかたまりの
円筒状のものが手に触った。

ファミリー用の入浴剤だった。

透と買い物に出かけた時、彼が買い物かごの中に
どうまちがえたのかそれを忍ばせていた。

その日、咳払いしながらすっごい早口で透は
ふたりで生きようみたいなことを言ったのだ。

聞き返そうと思った時、家族増えたときのために
とっとけよって、さらに加速度的に。

もう半ば口走るみたいにMaxの速さで言った。

早口競争にでもでたら、ええ。

栞は心の中でそう毒づいた時のあれが
いけなかったのかって思った。

透っていう名前のまま透きとおった海月の
ように透はしんでしまった。

そのでっかくて重い入浴剤の封を開けた。

微かに薔薇の香りが部屋にひろがった。

<家族が増えるんだって。透とわたしの。この間
わかったんだけどね。じんせいってやつがはじまった
みたいだよね。いつもいてほしい時にいないよね、
透ってみごとにいない>

栞もあの日の透のように早口で、そのことばをみえない
宙に放った。

透が書いた言葉の、ぼろぼろのつぎはぎだらけの紙の
上に雨みたいな涙が落ちた。

こころよ
では いっておいで
しかし
また もどっておいでね
やっぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行っておいで

八木重吉・「心よ」より。


なんどもその文字を指で追った後、バスルームへと
足を運んだ。

湯船の中にさらさらとパウダーを溶かした。

もわもわの湯気の中に甘酸っぱい匂いがあたりを
満たしていた。

今日の心にむかって、栞は、ではいっておいで
ってつぶやいた

そして、いつかもどってくるんだよって
いうことも忘れずに、湯船の中でひとり
しずかに枯れたような声を放っていた。




木漏れ日と薔薇のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210510148post-35050.html

ぱくたそさんに素敵な薔薇の画像を
拝借いたしました。ありがとうございます。

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