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小説『残雪』/言えなかった言葉、言わなかった言葉を思い出す。

去年読んだ好きだった短編小説

『残雪』のことをなぜか今書いて

おきたくなっていた。

日本海の雪深い街に住んでいた人を

好きだった昔.

海のそばで育った人は遠い場所に海が

あるだけで匂いの気配でそこに海があると

わかるんだと教えてもらった。

そして雪が降る前のどこか涼しい匂いの

こともその時、知った。

この小説の中には降り積もってしまった

せつなの雪の匂いがする。

そんな小説だった。

上田豪さんのこの小説のことをずっと

書きたくて、でもどうしても書けなかった。

いつか冬のうちに書きたかったけれど。

春の季語でもあるからぎりぎりセーフ

かなとじぶんに言い訳しながら。

小説の舞台は「雪の回廊」での渋滞シーンを

撮影するために、広告制作者である主人公が

青森の酸ヶ湯温泉を訪れているところから

始まる。

そして過酷な状況下の現場のアクシデントに

見舞われながらも、彼は仕事を終える。

この小説は、一人称である「私」や「僕」や

「俺」などの人称は一切記されていない。

俯瞰した視線がいいなと思う。

そしてどこか不穏なのに情景描写がすこぶる

美しくて。

雪の情景のなかのひとりというか、

その雪に紛れても構わないと思っている

かのように主人公は描かれる。

でもその人生はとても濃ゆく、雪の中に

いてもその輪郭がくっきりと表れてくる

ような。

古い駅舎で、偶然「ここ、いい?」って

ぞんざいに訊ねてきた一人の男と

出会う。

「悪い、火、貸してくれる?」

その時、主人公の彼は男にジッポを

差し出す。

この時、男の手の甲にある火傷の

跡に見覚えがあった彼。

それはまぎれもないケンゴとの再会

だった。

このシーンが小説の核にもなる描写に

出会って心を持って行かれた。

タイトルの「残雪」は雪のことでも

あるけれど。

男にジッポを差し出す。伸びてきた男の手の甲に
ある火傷の跡。それは、日陰にいつまでも残る雪
のように溶けることのない記憶。

 『残雪』・上田豪
「ココロギミック」p469


比喩の難しさは誰もがそう思えない時に

崩れるものだけれど。

上田豪さんの比喩はいつも寸分たがわなく

そこにある。

しずかに分け入るようにジグソーパズルの

一片がおさまるべきところに収まった時の

安堵のような、それでいて心に沁みいる

言葉。

ケンゴとの出会いは彼らの過去をあの雪の

中のジッポのように照らしてゆく。

少年だったかつてから青年を経て現在の

大人になった彼ら二人の間に流れていた

魂の時間が細やかに描かれる。

淋しさと正義と友情とやるせなさと。

いくつもの裏切りというフィルターの底に残った本当の仲間。
心許せる仲間は別に多くなくていい。

『残雪』・上田豪
   「ココロギミック」・p477
 

戦う時は戦う。

ひとりきりでも戦う。

それがたった一発だったかもしれない

メリケンパンチのためでも

戦う時は戦う。

リベンジとかカタカナでするっと

逃げない。

ちゃんと復讐する。

ともだちを守るために。

ハードボイルドって一言でこの小説を

くくってしまうと何かとても大切なものが

こぼれ落ちてゆくようでわたしはその

形容に軽い抵抗がある。

この小説にはまぎれもない時間が流れてる。

どんな人にも人生があるけれど。

この小説の中の人生は実人生だと思う。

虚構の中のほんとうに流れていた時間が

如実に描かれている。

時間は誰にでも平等に流れてるけれど

その流れの中で感じることはそれぞれ

違うという地の文章につづく次のような

至極正確な描写にも惹かれる。

どこかで壊れ、自分の時間が止まったまま、止まっている時計に
気づかない振りをしながら、それを抱えて、ただ、生きている人
もいる。

『残雪』・上田豪
「ココロギミック」・p479

ふたりに流れていた時間を遡るその

北国のちいさな駅舎。

時間が止まっていたのは、彼なのか

ケンゴなのか。

そしてふたりなのか。

彼らの記憶を確かめ合うのは短い列車が

くるまでの時間だった。

人生ってほんとうにせつな、なんだと

思いながら。

「せつない」の言葉の中に「せつな」が

はいってることが好きだったことを

思い出す。

わたしもひっそりとその駅舎の片隅に

座っている気持ちになる。

戦うのはいつも自分のプライドの

ためじゃない。

友人の尊厳が失われた時。

友人が理不尽に傷ついた時。

主人公は鍛えぬいた体を張って

戦う。

わたしにはできないがゆえに

彼の無駄のない体の動きに

ほれぼれする。

そして動いてゆくその線を描けないくせに

描いてみたい思いにも駆られる。

出会いは手のひらの中で灯る

ジッポライター。

そしてさよならも短い列車がホームに

たどりついた時、

掌のなかの冷たいジッポが握ってる。

お互いこれまで、本当に伝えたかった思い。伝えるべきだった思い。
自分がやり通さなければならないことを前にした時ほど、そんな思
いを言葉にせず、いくつも飲み込んで、ここまで生きてきたのだ。
だから、最後まで、そのままでいい。

『残雪』・上田豪
「ココロギミック」・p483

固ゆで卵ハードボイルドじゃ、ぜんぜん足りない。

読点がぽつりぽつりと畳みかけてくる

その呼吸に言い尽くせない時間を

味わっていた。


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