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忘れられない言葉を置いてゆくんだな。

弟が、大学生の頃祖母の記憶が、時々

途切れ途切れになるようになった。

ふだんは母が仕事が暇なときは

わたしが祖母の日常の手伝いをしていた。

おまけに、我が家は親戚同士の闘争の最中に

あったので。

あしたのことですら、何も考えられなかった。

ただひとつ、不幸中の幸いと思えたのは

祖母の記憶の曖昧さでもあった。

哀しいことの輪郭があらわになっているのは

あまりにもつらいから、祖母はそのままで

いいのだと。

日々いろいろなことがあったけど。

厳しいけれど祖母が好きだったので、空想に

逃げる癖のあったわたしは今見ている祖母は少し、

違う世界から間違ってここにいる祖母と同じ顔を

した別の誰かだと思うようにしていた。

ある日の午後、祖母はとても穏やかな表情で、

わたしに話しかけた。

「あのね、ぼんちゃん頼まれてくれない?」

祖母はそう言いながら、しきりに時計を見ている。

「おばあちゃんね、3時に人と会う約束してるのよ。
その人はこっちに向かってるらしくって」

ずっとベッドの上の生活で、誰かが祖母に会いに

訪ねてくることなんて、あたりまえだけど

一度もなかった。

きっとその約束は、祖母の遠い昔の出来事だったの

かもしれない。

わたしは祖母の少し混乱している記憶に、委ねてみる

ことの方が大事なのかなって思ってそこに乗ってみた。

「その人は3時に来るんだね」

「そう、そうなのよ」

再び、祖母は時計を見る。

時計の針は2時45分ぐらいだったと思う。

常識で考えれば、その時間に相手に面会のキャンセルを

連絡することは、失礼にあたるぐらいの出来事

だろうけれど。

祖母の様子をみながら、話しかけた。

「もうすぐだね、3時になるよね」

「そうなのよ。だから、その時間におばあちゃんは
忙しくて、会えないんだって、その人に言って
くれない?」

少し不安げな表情の祖母。

わたしの目をみてその返事をうかがっている。

祖母の不安を取り除きたいと思ったし、

今の最大の祖母の望みを叶えてあげたいと

思った。

「わかったよ。おばあちゃんは、今日都合が悪いから
会えないんですって言えばいいんだね」

「断っておいてくれるね?」

「うん、今からその人に電話して断っておくよ」

祖母の目は、とても明るい昼下がりの光が

差していた。

そう告げて、わたしは祖母の部屋から一旦、

廊下に出てキッチンへと向かった。
 
3時になったらお茶の時間だったので、いつもの

お気に入りのつぶあんぱんとお茶となぜか

大好きなかっぱえびせんと、好んで食べていた

キャラメルケーキをお盆に用意していた。

ついさっきまでしていた話も、忘れてしまう

こともしばしばだったので、次に祖母の部屋に

行ったときはその話は自分からはしないで

おこうと思った。

混乱させたくなかったし、さっき見た祖母の笑顔を

崩してしまいたくなかった。

トントンと部屋をノックする。

お茶の時間だよって声をかけると、祖母はわたしの

顔をじっと見ていた。

そして、何か答えを待っているみたいに少しだけ

緊張した顔をした。

「ちゃんとあの人に断ってくれた?」

記憶がその時途切れていないことを知った。

さっきまでの会話を祖母は覚えていたらしい。

「大丈夫だよ、電話して都合が悪いのでまた次にして
くださいって言ったら、はいわかりましたって。
おばあちゃん、お大事にってその方が言ってたよ」

ちょっと、とっさにそんなふうにわたしは

言葉を盛って飾った。

「そうね。断ってくれたのね。よかった、よかった、
それはよかった」

祖母は、うれしいことでもあったみたいに、笑顔に

なって幸せそうな顔をした。

帰省した弟が、最近お祖母ちゃんどんな感じ?

って聞いてきたから。

あの午後3時の待ち合わせの話があったことを

ありのままを話した。

そんな話をしていたとき、母がぽつりと言った。

忘れてしまったから、おばあちゃんある意味

楽よねって。

わたしも、嫌な記憶は葬りたいほうだったから

その想いに賛同していた。

でも、弟はちがったみたいで。

それちょっとちゃうでって意見したい時の、

いつもの尖った口もとだった。

そうかな? ってわたしたちの想いに疑問を

投げかけた。

弟はずっとお祖母ちゃんっ子だった。

祖母もわたしより弟の方が好きかもなって

思ったこともあったけど。

弟も大学進学で実家を離れてからも、

たびたび帰省する度に祖母の部屋でしばらく

話をしていた。

「俺らはさ、お祖母ちゃんみて、忘れたほうが楽って
表面的には思うけどさ、心の底の方ではぜんぶ
憶えているかもしれへんやん」

いちばんつらいのはお祖母ちゃんかもしれへんやん。

って、重ねるように言った。

忘れたもの勝ちではない。

忘れたようにみえるものも、潜在意識のずっと底では

こつんと音がするその場所に、忘れられない記憶を

抱えているかもしれない。

そんなことを言いたかったみたいだった。

あの日の弟の言葉に正直わたしはやられた。

わたしは日常に追われていて、好きだった祖母の

ことを正直そこまで思いやることができなかった。

弟のその発言は、祖母のことをほんとうに愛して

いるがゆえの言葉だと思った。

わたしはその時また、弟にみえないなにかに

追い抜かれたと思った。

そして、みえないものに心をはせてみることが

愛情なのだと弟の言葉から学んだ気がした。

忘れてしまった 記憶の行方を 知っている
忘れたかった 追憶のさだめは 知らないけれど





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