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ハードボイルド書店員日記【189】

「おお、いたいた!!!」

夏の前髪を視界に捉えた平日の午後。棚卸に供された返品の山を心ならずもダンボールへ詰め込み、カウンターに駆け込む。ハヤカワ文庫用のカバーが足りないと気づいた矢先に、海外文学を愛する常連さんが大股で近付いてきた。グレーのハンチングを被り、ジョン・レノンみたいなレンズの丸い眼鏡をかけた声の大きい老紳士である。

「いらっしゃいませ」
「アンタに訊けば間違いない。夏葉社ってあるよな、ひとり出版社の」
「ございます」
「そこの創業者が初めて作った本、何だっけ? ここまで出かかってるんだけど」
「バーナード・マラマッド『レンブラントの帽子』です」
「それだ!!!」
手を叩き、右の人差し指を前へ突き出した。隣で会計をしていた若い女性が人工的な眉をひそめる。

「1975年に集英社さんが刊行した同名の短編集から代表的な3編を抜粋し、2010年に夏葉社さんが復刊を」
「いまある? 持ってるから買わないけど」
「ございます」
この規模の書店で置いているところはなかなかないだろう。営業マンでもないのに文芸書担当へ頼み込み、一冊棚差しにしてもらっている。海外文学が売れないから置きません、では子どもの使いと変わらない。入り口として読みやすく、興味を抱くきっかけになりそうな名作を選ぶのも俺たちの仕事だよと説得したのだ。

「お待たせ致しました」
「これこれ。いいよなあ和田誠」
「この表紙、私も好きです」
「あれ? でもさ、いわゆる『レンブラントふうの帽子』ってこういうんじゃないよな」
本をぐるぐる回し、音楽室のベートーベンみたいな眼差しを頻りに細める。
「そう、ですね」
相手は未読ではない。でも内容を忘れている可能性もあるから、あえて曖昧な言い回しに留めた。
「女性のかぶる帽子じゃなかった?」
「……ああ」
何を言わんとしているのか理解した。再びカウンターから飛び出し、一冊を手にして戻る。

「こちらのことでしょうか」
岩波文庫から出ているプルースト「失われた時を求めて2 スワン家のほうへⅡ」を手渡した。1巻と2巻、そして最後の14巻だけ在庫があった。
「これかなあ。何年か前に図書館で読んだ記憶があるけど」
「よろしければ133ページの注を」
そこには写真と併せ、こんな文章が書かれている。

「レンブラントふうの帽子」とは、幅広のつばに羽根飾りをつけた帽子か。

「そうそう!!! 間違いない。この本だ。この本で知ったんだよ」
大興奮してページを捲る。
「ありがとう。おかげでスッキリした」
「ちなみに、夏葉社の創業者・島田潤一郎さんも『失われた時を求めて』を若い頃に読了しているようです」
「らしいね」
「ということは、彼も『レンブラントの帽子』という題から『レンブラントふうの帽子』の写真を連想したかもしれません」
「あり得るな」
「そのささいな食い違いが『レンブラントの帽子』のすれ違うストーリーを切実な自分ごととして噛み締めることに繋がった。その経験が巡り巡って、自ら起ち上げた会社で作る最初の一冊に」
バタフライエフェクト的な妄想をしばし楽しんだ。

帰り際、老紳士がこちらを見て金歯を露わにする。
「アンタ、探偵になるかい?」
「ハードボイルドといえば、書店員よりも探偵ですね」
「転職する?」
「まさか」
「安心したよ。じゃあまた」
「ありがとうございました」

「レンブラントの帽子」を読んだ人は、おそらく多くない。難解な超長編である「失われた時を求めて」も同様だろう。だがどちらも読んだからこそ、私たちは知的好奇心を満たされるひと時を過ごせた。そしていずれも読むきっかけをくれたのは、まったく面識のないひとり出版社の創業者なのだ。

夏葉社の本、もっと置こう。

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