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ハードボイルド書店員日記【126】

午前2時。諦める。

明日、いや今日は3月3日。煩わしい。ひな祭りに罪はない。ジャンプコミックスの発売日だ。4日が休配で前倒しになるのは2月と同じ。違いがあるとすれば「ワンピース」と「呪術廻戦」が各々1000冊以上入ること。いきなりトップギア。寝ないといけない。責任感。ゆえに眠れない。

寝ないことにした。花粉症の影響で鼻が詰まり、口呼吸で喉が冷えるのも原因だろう。プロレスラー・小島聡みたいにブリーズライトを鼻に付けるか。駅前のマツキヨで探しちゃうぞバカヤロー。

私はコミック担当ではない。だが人手が足りないので手伝わないといけない。梱包をこじ開け、シュリンクの機械に一冊ずつ流す。特典があれば予め帯に挟む。開店前の貴重な時間は自分の棚に使いたい。特に最近は、注文していないうえにさほど売れない補充分が何かの呪いのように連日届くのだ。

シフトは見なくてもわかる。10時からレジだ。30分後には出られるが交代要員がよく遅れる。既婚で小さい子どもがいる彼は朝来るのも遅い。ほぼ常習犯。家の事情なのか本人の性格なのかはわからない。ただ悪い人間ではないことはたしかだ。

一切を穴の開いた靴下みたいに放り出し、フランスかアメリカに行きたい。三十歳までに作家になっていれば可能だった。予定通りにいかないのが人生? 「決して予定通りに行かない」という予定にはずいぶんと忠実じゃないか。サルトルは正しい。人生に意味などない。なくても構わない。ブコウスキーを見よ。ないから書くのだ。不毛な夜にのそのそ起き出して。

ふと読みたい本が思い浮かぶ。手に取った。河出文庫の中村文則「掏摸」だ。

某大型書店のカバーが掛かっている。買った当時のものだ。もはや存在していない店の名がプリントされている。そのうちのひとつはかつての職場だ。販促のために訪れた作家本人と言葉を交わした場所でもある。目の下のクマに感性の放埓を視た。明日の私もあるいは。

「『掏摸』と『銃』を読みました」正直に告げた。「さっきの店員さんも同じことを」出版社の人と顔を見合わせて笑った。「『クリープ』が好きです」とファンに告げられた2023年のトム・ヨークなら彼の心の声を聴けるだろう。2023年の私ならすべて読了している。耳が痛くなるコメントで苦笑を誘えるし、こんな芝居じみた本音も口に出せる。

「あなたの最高傑作は、あるいは『教団X』かもしれない。しかし私がいちばん思い入れを抱き、何度も読み返しているのは『掏摸』です」

102ページと103ページの間に、神保町にある喫茶店のレシートが挟まっている。日付は2022年3月1日。昨年の同時期も引き寄せられていたらしい。大方人生にぼんやりとした鬱屈を覚え、眠りを強要する夜の重力に苛立ち、加えて少々花粉症だったのだろう。

ニーチェが唱えた永劫回帰は、ひとつの生涯の中でも起こり得る。既視感のある瞬間を繰り返し、少しずつ慣れていく。ゆるやかに坂を下りていく。白髪が増え、瞳は充血し、腕と脚が細くなる。もしくは若返る。

誰かが私のことを嗤っている。誰が? 己自身だ。第三者の眼差しを借りて自分で自分を見張り、よく似た顔と服装をした連中の代弁者と化して他人事みたいに。その歳でその年収はやばいよ云々。他人に言われたくないから自分で言う。本当に言われたくないことはここにも書かない。書ける神経を備えていたら、私も中村氏のように芥川賞作家だ。

こんな文章を綴って何になる? 顔も名前も知らぬ誰かを落胆させる。だがそれでも。それでも忘れたくない一節がある。「掏摸」の26ページ。青い線が引かれている。

「ただ俺はね、自分が善人だって、頭から信じ込んでる奴が大嫌いなんだ」

レシートを挟んだ103ページ。

「わかっただろ。俺はお前の救世主じゃない。その辺の男と一緒だ」

とどめは青や黄色の付箋が貼られた165ページ。

「つまらん人間になるな。もし惨めになっても、いつか見返せ」

嘘をついた。私は諦めていない。もう一度だけ新人賞に応募したい。自分に生み出せる最高の作品を送り、判定を委ねるために。書店員も悪くない。だが真なる我は小説家にしかなりたくない。ゆえに管を巻くように書き殴っている。

3時21分。もう少ししたら布団へ潜り込む。いつまでも書いていたいが不眠はまずい。雇われ仕事に対する責任意識及び義務的な強迫観念。それらを受け容れる己が嫌いではなく、同時にひどく癪に障る。平気で遅刻できる同僚のメンタルに憧れる。それでも彼は決して私にはなれないのだ。

善人でも救世主でもない。私は書店員。そして書き続ける物書きというものだ。

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