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国際結婚と文化人類学の雑比較ー2冊の本の紹介から

文化人類学者は参与観察(さんよかんさつ)とよばれる、現地での長期(数か月~年)の住み込み調査によって資料をあつめる。

そうして自分が収集したものについて考えるとき、自分のえた感触は、一般化しうるものかどうか、たとえば国際結婚をされたひとなどは、どのように現地をみておられるのだろう、とわたしは研究書ではないものも読みあさってみることがある。


そんなこんなで、及川眠子氏がトルコ(クルド)人の男性と結婚していたことを記した本を読んだ。トルコはウイグルと同じトルコ語系の国なので大変関心があるのだが(トルコに住むウイグル族の調査もしたことだし)、いかんせん、現地に長く住んで(及川氏は日本在住だが)違和感や共感を、細部をつめて口にしてくれる人はあまり多くはない(そもそも国際結婚とはそれが目的でもない)。


及川眠子氏は、エヴァンゲリオンのOPの曲の詞を書かれた方である(わたしはエヴァのファンではなくて申し訳ないのだが…なんか共感するところがなくてな)。
壮絶な経緯をへて離婚にいたったということなので、お相手のトルコ人男性のかたを「ひどい」「おかしい」という人を書評にちらほら拝見するのだが、わたしの感想は「以外と普通のトルコ人のような気がするなぁ」だった。

来日の際に要求した数十万円に始まり、数百、数千、そして総額にして三億円という金額をもらう立場に立たされ、最終的にあさましく変貌してしまったトルコ人の夫氏なのだが、

序盤の家での力仕事を率先してこなしてくれるところとか、
義母(及川氏母)への丁寧な接し方とか
及川氏が「子供はいらない」といったとき、親族に自分の体が原因で子はつくらないことにした、と説明しているところなど、

実にいいやつである。

及川氏が彼の好きなところについて描写されていて、一番ああなるほどなぁと思ったのは

「「もしあなたの目が見えなくなったら、ワタシの角膜を一つあげる。もしあなたの腎臓が悪くなったら、ワタシの腎臓を一つあげる。」」

及川眠子『破婚ー18歳年下のトルコ人亭主と過ごした13年間』p47-48, 新潮社。

「いつも真っ直ぐに私を見て、愛していると囁く。一緒に歩くときには必ず手を繋ぎにくる。人前でもお構いなしにキスをする。そんなわかりやすい行為が私には心地よかったのだ。惑う隙を与えない愛情は、人の気持ちを優しく穏やかにする。わたしはEと離れているときでも、ほとんど寂しさを感じたことはない。電話でもメールでも、そばにいるとき以上のものを投げかけてくるからだ。」

及川眠子『破婚ー18歳年下のトルコ人亭主と過ごした13年間』p49, 新潮社。

ここを読んで思い出したのは、俵万智氏の小説『トリアングル』。
日本人の恋人同士の会話の一コマなのだが、この対極かと思われるのだが、どうだろう。

「今さら言うことじゃないかもしれないけどさ、オレは…オレは、結婚したいと思ってたよ」
「結婚!?」
「そう、別に、今日明日ってことじゃないけど、いつかはそうしたいっていうぐらいは思ってた。でも、そっちは、結婚には興味ないって、前にいってたし」
「え、そんなこと言った?」
「うん、酔っぱらってたから、忘れてるかもしんないけど。オレは、かなりびっくりしたから、よく覚えてる」
「うん、まあ、酔ってたかもしんないけど、私は、恋愛の延長に結婚を考える人ではないってことは、確か」
「なんで?」
「なんでって……。結婚なんて、ただの社会的な仕組みっていうか、制度でしょ。それと恋愛は関係ないし、結婚して、よりよい恋愛ができるようになるなんて、とうてい思えないし」
「なんか無理してない?」
「なによ、無理って」
「だって普通はさ、好きな人と一緒に暮らしたいとか、結婚してみんなに認めてもらいたいとかって、思うもんなんじゃないの」
「別に、人さまに認めてもらうために、恋愛してるわけじゃございませんっつーの」

俵万智 2006『トリアングル』p244-245、中央公論新社。

ああ、及川氏のほうは「横」の関係だったんだな、とわたしは思ったのである(↑ここで「横」に力をかたむけられなかったかれは、小説内ではふられている)。

すぐ「愛してる」という外国人など信用ならないというかたもおられるかと思うのだが、ウイグルもそっちの方面では大変熱しやすい民族で、トルコ在住のウイグル族の女の子たち(学生)とわたしが同居していた際には、「いま〇〇からのプロポーズがすごくて…」などという悩みを女の子たちがしょっちゅう話しあっているのを聞いたりしていた。

男女の話ではないが、わたしはウイグル族と接するようになって、ウイグル族の友人がいつもわたしの目の前でパン(ナン)をふたつに割って、そのかけらを手渡してくれるのが好きだった(異性とのおつきあいは意識して避けておりました~、面倒なんでね☆)。お互いの食べ物に手をふれながら食事をする、というのはなんと心通うことなのだろう、と思っていた。

こちらの食べる量などをよくみて、細かく声をかけてくれ、食べる手が止まると、「食べて」「遠慮しないで」と声をかけてくれ、同じ大皿の米(ポロ)の山をこちらにくずしてよこしてくれたり、肉など手渡されたしてもらったりしながら食べる食事は、日本では味わえない楽しさがあった。
日本に帰る船のなかで、日本人の旅行者に食事にさそわれ、それがトレーにのった別々の食事をまったく手もふれあわずに食べることだと気づいたとき、わたしは「今異文化にかえっているのだ」とさとって、悄然としたことがある(日本では鍋だとしてもいろいろマナーがありますな)。

だから対象は違っても「横」からのアプローチをなつかしむ「わっかるな~。」という思いがある手前、わたしには及川氏を責めたりする余地はない(この微妙な違い、ピンとこられますでしょうかね)。

そしてトルコ人夫氏のされる金銭の要求だが、これはその窮地(?)に立たされたことがないため、若干語りづらいことではあるのだが…、イスラム圏のカップル、めっちゃ要求するよな、というのは覚えている。新疆でウイグル族のカップルの女性(学生)が彼氏(学生)に笑顔でけっこうでかい額の要求を日常的にしていてたのはおぼえている(目の前で「ねぇ、いくら頂戴」とかいわれているのを目をまんまるにしてみているわたし)。

男女ではないが、新疆で日本語教師をしていた日本人女性は、生徒(女性)に「先生のセーターいいですね。授業が終わったらもらいにいきます。」といわれ、「なんなのあれ(怒)」と憤慨していたのをみたことがあるが、「日本人の感覚でいえば」それは図々しいというか、神経を疑うというか、憤慨するのもよくわかる、のだが、

なぜあんなに正々堂々と要求できるのか、むこうのひとのあの神経はわかりにくいのは確かなのだが、ただあれは、あなたの要求(等価交換ではない)があるときには、わたしは答える、だからわたしも要求をする、という親交のサインだという部分もあるのである(これをがっつり調査してほしいと思ってくださったら、調査費をくだされ)。

イスラム圏にいると、親しい人ほど要求をしてくるし(パキスタンで、今のところ)、親しくない人は善意であげようとしても身を縮めて逃げる、ことがある(窮地における助力はこの限りではない)。逃げるのは”あなたとはあげ合う(助け合う)関係にはならないよ”ということだと思うのだ。

そこでは、ときに家族全員にひとまとめに贈り物をしようとしたりしても避けられたりしていた(パキスタン)。必ず「一人ずつ手渡しでやってくれ」といわれるのである。そこでは「皆で分けて」なんていう相互に認めあうことのできないかたちでの贈与などありえなかったのである。

「遥かなるクルディスタン」という映画(トルコ製)をごぞんじだろうか。
おそらくトルコにおけるクルド人の迫害問題に光をあてるという名目で、ミニシアター等で上映されていると思うのだが、

わたしはこのDVDを地元の図書館から借りてきては、その映像の無駄のなさと、あと一歩で論文さえ書けそうなトルコの人間関係のシンボルチックなやりとりの数々に、調査屋魂が刺激されてきた。

ここで注目したいのは、その映画の恋人同士のふたりが、ラブラブの恋人モード(BGMもなんだか甘やか)にいるときに
「要求ごとしかしてない」という戦慄すべき事実。
監督、なんでこれで場面が成立すると思った(褒めてる)。

風の強いテラスのカフェで彼女が
「ビールを(持ってきて)」
え、今奢れっていった?それとも割り勘?と小心者のわたしは気になってくるのだが、カフェでのデートのあとで、
「小銭ある?」
え、それもまた彼氏に聞くの?彼氏って財布?でも深まるラブラブ音楽、なんなんだこのシチュエーションは
「手紙だしておいてくれる?」
それも彼氏がやるの?(ふたりの乗るバスの後ろ姿がうつりながら高まるラブラブ音楽)
という、要求=ラブ(??!)という謎シーンなのである(監督的には「え、そこ謎?!」といわれるかもしらんが)。

彼女のほうもまた、彼がトラブってテレビなどという大型家電をもって街をうろうろしていれば「預かってあげる」というし、ストッキングを履いてみてほしいといわれれば履き、物語のもっとも重要な場面では、躊躇なく金製とおもわれる装身具を彼のために差し出す。彼女のほうも、支出をしている。ただそれは等価交換ではないのである。

大事なことはおそらく相手の要望がそのときなんであったのかに(しつこくいうが等価交換ではないし、そうであるべきではない)迅速に対応することなのである(要望がない場所には必要なし←ここ重要)。

及川氏は等価交換にこだわったことと(貸した金は返してといわれれば返ってくるべきだと考えた)、自身の「窮乏」がそもそも存在しなかったということで、おたがいのあいだの「要求」のバランスがくずれてしまったのではないかな(返して、以外の要求をすべきだったのでは…などと)、などとわたしは思うのである(だって三億だぜ…)。

借りた金を返すというデンジャラスなやりとりにみる相手の心のうちの何か、すなわち、現地ではどのように夫婦間での貸し借りがあるかなどのヒアリングを及川氏はされていなかった(と思う)。

「愛している」となんで相手はいつもいい、及川氏にも「いってほしい」といっていたのかの理由を追求してみることもなかった(常にカウントはゼロである、という言語感覚)。
日本人なら長く一緒にいればいわなくてもわかるもんなんだから「いわなくてもいいでしょ」、「そういうものでしょ」と相手を見ずに「日本の」常識を及川氏が採用してしまったとき、
国際結婚の限界(文化人類学的調査と比較した際の、です)をみたかな、とわたしなどは思った(カウントは常に過去からつみあげられている、という日本人の言語感覚)。

国際結婚をされたかたが追及しているのは「わたしの幸福」であって、「彼らとは誰か」を書きあらわすことではない(当然である)。その内側に食いこみまくった描写のすごさに引き込まれると同時に、かれらは文化人類学者ではないと思うのである(だから、文化人類学という枠さえ外せば、彼女の生きざまは驚嘆のひとことしかない。わたしには)。

そういえばあんな本もあったな、と。
スイス人女性がケニアでマサイ族に一目ぼれをして結婚し、破局した過程をつづった本、『マサイの恋人』である(これはイスラム圏の話ではないのだが、おこっていることは実はイスラム圏ととてもよく似ている(オフレコ)のでおもろいです)。

ここでも夫であるマサイに示された男と女のあるべきふるまいに対し、著者のホフマン氏は、自身の考えに固執する。相手の文化的土壌に目をやることはない(特に「嫉妬」に関して。わたしの好意を疑うの?!という彼女側の怒りと、かれが考えていることとの違い)。そのことは、訳者が的確にあとがきで記していた(「何だわかってたのか…」と思った)。

本書はマサイ族の生活を描いたドキュメントではない。あくまでも「彼女の物語」なのだ。

ホフマン,コリンヌ 2002『マサイの恋人』講談社(訳者[平野卿子]あとがき p343)

現地の人と結婚して長い時間をすごしている人たちはどんな光景を目にすることができているんだろうという関心で、こうした本に目をとおしてみているのだが、それは自分のいろいろな体験を思い出すきっかけにもなるうえ、現地に頭からとびこんだその生き方に敬意を覚えつつも、やはりこの人たちがこのような本をあらわしていたとしても、さらに文化人類学者としてできることはある、とつきつけられる、というのが今のところの国際結婚に対する思いである。


わたしのゼミの先輩のおひとり(既婚・女性・韓国人)がおっしゃられたことがあった。調査にでようとする先輩に、先輩の配偶者どの(日本人)がこうおっしゃったのだという。

「わたしもあなたの調査対象になりたかった」


大分昔にうかがった話だが、このテーマをかんがえたときに思い出した。



夫婦の愛よりも深い(部分もあるw)、
文化人類学者による共感の姿勢(限定的ですよw)、



それをこころして、迷いながら、いま一度、調査にでたいと思う。



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