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「人間の嘘と正直さ」

20代の私は自信がもてず、向き合えず、自分に嘘をついて生きた。
泣きたい時は笑い、面白い時はしかめっ面をしてみせた。どうしてそんなことをしていたかと言うと、そうすることで大人に近づけると思ったからだ。
未熟である。
未熟さは更なる未熟を生んだ。
未熟なのに大人ぶる。それは嘘だ。
嘘は嘘でコーティングされ、自分が誰なのかすら判らなくなった。
20歳で店を持った。
大人になれないまま、カウンターに立つことは過酷だった。
私は、あらゆる方法で売り上げを伸ばす努力をしたが、根本的に大人を喜ばせる方法が判らなかった。

30代に入り、真剣にお客と向き合えるようになった頃、嘘をつかなくても済むようになった。
自己と向き合うことから逃げなくなれた。
うまいことを言ってその場をすり抜けたり、偽りの褒め言葉も使わなくなった。
腹を立てることがあっても笑って誤魔化す自分に嫌気がさした。
正直にカウンターに立ち、お客さんとなんでも本音で話し合える嘘のない店を目指した。
その為ならば、意見をぶつけて口論になろうとも、時には喧嘩になろうとも、正直さに勝るものなしと信じ、覚悟をもってお客に臨んだ。
その時の私は、正直に自分を表現できることに酔っていたのだ。
だが、正直にありのままの自分を表現することもまた、自己中心的で傲慢な振る舞いとして他者に映っていた。やがて、何十人もの大切なお客を失った私の心は、ポキリと折れてしまった。正直だけでは、うまくいかない。

やはり、「嘘」も、必要だったのだ。

元来、BARにはストレスフリーのお客は少ない。酒を必要としている人の人生は酒も込みの人生だ。だから酒を飲みにやってくる。

20代で自分を偽り嘘をついて来た私。
30代で正直に自分とお客と向き合い、お客を減らして来た私。だが、離れなかったお客も少なからず存在する。
40代になり、私が守っている今のスタンスは、

お客に喜んでいただくのに、嘘も正直さ(真実)も必要ない!

というものだ。

言葉には力があった。
それに気がつかなかった私は、言葉に翻弄され、言葉には踊らさせる20代を過ごした。

30代になり、正直に自分を表現できる喜びに酔った。言葉は力、力をつけたい、言葉を駆使したい。欲望は果てしなく話術を研究し続けた。

今は、嘘もつかず、真実にたいしてもとくに重要性を感じなくなった。

もっとも重要なのは、目の前にいるお客の未来を考えること。
未来と言うと大袈裟だが、その人の1時間後でもいいし、明日でもいい。
その繰り返しが1年後になり、10年後になる。気がつくと一生の付き合いができていると言うものだ。
私は、嘘も正直さも好きだ。
そして、その人のために必要な嘘や真実なら喜んで吐き出す。
その時は、自分に課している絶対条件がある。

これが、その人との今生の別れになるやもしれないという覚悟はあるのか?

と必ず自分に言い聞かせる。
その一言を伝えるにしても、思いとどまるにしても、後悔のないようにしたいからだ。
言葉には力があるから、その一言が人の、或いは互いの人生を別けるかもしれないのだと戒める。

もう大好きなお客を失いたくない。
だが、状態のよくないお客を、放ってなどもいられない。その人の人生において重要な局面を迎えていることに、その人だけが気がついていない場合、私に出来ることがあるならば、例えそのお客を失うリスクがあったとしても私は伝える努力をするだろう。

嘘や正直さは、「本気の覚悟」の前では無力なのだ。

覚悟を持ってことにあたる。
これこそが、40代の現在の私の結論である。

だから、嘘も大いに楽しみ、正直さも心から楽しめるのである。





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