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掌エッセイ

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心に水を。日々のあれこれを随筆や掌編に。ほどよく更新。
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#猫

【エッセイ】あちらのお客さまから

【エッセイ】あちらのお客さまから

一度でいい。“あちらのお客さまから”をしてみたい。映画で見るようなあれを。

そこは繁華街の喧騒がかろうじて聞こえる、裏通りに溶け込むように佇むバー。狭く薄暗い店内には横長のカウンターとスツール、いくつかのテーブル席が設えてあり、耳を優しく撫でるような音量でジャズが流れている。

さまざまな銘柄のハードリカーが壁際の棚を美しく彩り、カウンター内でシェイカーを振っているマスターが、不安げに入ってきた

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【エッセイ】焼香の手順

【エッセイ】焼香の手順

作法というものに基本うとい。

元々世の中の不文律を察する能力に欠けてはいたが、特にフリーランスになってからは、なけなしの社交性を発揮する場もほぼ失われ、たまに社会との接触を求められると、何かをやらかす確率が格段に上がった。

先日も、生前大変お世話になった方の通夜に、白いネクタイ姿で乗り込むところだった。

確かにエレベーターの中で鏡を見ながら、自分の仕上がり具合を最終チェックしているときも、「

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【エッセイ】猫トイレ一本勝負

【エッセイ】猫トイレ一本勝負

首を気持ち長めにして待っていたおれは、いざそれが届くともういてもたってもいられず、やりかけのタスクを放擲してハサミを手に取り、巨大なアマゾーンの箱を野蛮人になったつもりで切り開いた。

きた。きたきたきた。白いかまくら風のいでたちの、新しい猫トイレが。

さっそくそいつを箱から取り出し、ピクトグラムのような絵だけの説明書を見ながら組み立てる。そして一連の淀みない動きでもって、新しい猫トイレの中に猫

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【エッセイ】靴屋の思念

【エッセイ】靴屋の思念

靴屋というのは奇妙な場所で、なぜならあそこではみんなが靴のことを考えている。

スタッフもそう。客もそう。あんな靴にしようか。こんな靴にしようか。靴屋にはそういった思念が渦巻いている。誰もうまい棒のことやデメニギスのこと、インボイス制度のことを考えたりはしない。そういった思念は靴屋では受け入れられず、ピンボールのように弾かれて排斥される。

けれど、私はデメニギスのことも考えたい。だってすごいじゃ

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【エッセイ】キイチビールと下北沢

【エッセイ】キイチビールと下北沢

2021年、末。私は下北沢にいた。

「キイチビール&ザ・ホーリーティッツ」というバンドの解散ライヴを、ひょんなことから観に来たのである。

それにしても下北沢。いい街だ。それなのに、そこはかとない罪悪感を覚えているのは、三軒茶屋からこの街へタクシーで乗り込んできたせいだろう。マイルールを破ってしまった。下北沢へは散歩がてら、茶沢通りをてくてく歩いて向かうか、バスに乗って北沢タウンホールで降り、ザ

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【エッセイ】仮面の国

【エッセイ】仮面の国

しまった、マスクがない。今から出かけるのに。

こうなれば途中のコンビニで買うしかないが、そこでふと思い出す。そう言えば友人の結婚式でもらった、引き出物の般若の面がどこかにあったはずだ。“引き出物の般若の面”というパワーワードにひとり苦笑するが、嘘ではない。本当にもらったのだ。鉄製でずしりと持ち重りがし、額の辺りから鋭い角が伸びている。いかにも剣呑だ。当然のごとく置き場所に困り、押し入れ深くに封じ

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