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どんどん良くなっていった職場環境

技術の会社に転職して5年、技術についての話をしたことは1度もない。みんなでランチに行っても、誰かの誹謗中傷と人格非難の悪口で、誰一人、技術の話をしない。そればかりか、仕事の話をしない。

自分は悪口に興味がなかったので、自動的に少しずつ離れていった。
そこで1匹オオカミとなったが、おかげで仕事に専念することができ、成果をどんどんあげていった。
その結果、私が誹謗中傷の的となった。

誹謗中傷されている人間がやった仕事の成果だから奪ってよい、
そう判断した上司が、私が出した成果をすべて横取りし、自分が取締役会や本部長会で発表する、
それが正義となっていった。
これが3年以上続き、その事実を同僚に話した。

そうすると、今度は人間関係がみるみるうちによくなっていった。

上司の行為についての誹謗中傷をすると、人が集まり始めたのだ。そして、周囲の人も親切になっていった。

しかし、まったく幸せではなかった。

仕事の成果を出し続けた時も、
成果を取り上げた上司の行為の誹謗中傷を始めた時も、
人間関係がどんどん良くなっていった時も、
まったく満たされず、ずっと重い気持ちになっていた。
私が求めていたのは、一緒に成果を出し喜び合うパートナーだったのだ。

しかし世の中、人との繋がりは嫌いな人が共通していること、そんなものなんだと思う。
人は、満たされるといったメリットがあるから一緒にいるのではなく、一緒にいないと悪口を言われるデメリットがあるから一緒にいる。
更にはストレスの捌け口が欲しい。ただそれだけ。
………………
能力を発揮するために一緒に頑張ってくれる人、
成果を出したときにたたえてくれる人、
それは不存在。
それをやっかむ人、奪う人が勝ち組。

自分は誰かを誹謗中傷したくないから、一人でいる。
そうすると誹謗中傷され、
誹謗中傷されている人の成果だから奪ってもよいものとして成果を奪われ、
成果を奪われた出来事を非難すると、
成果を奪った人の人格を非難したいという
私にとってはよくわからない人が集まってくる。

そして共感によって隔離され、そこに落ち着いてしまったが、全部奪われた自分が居るところは、
何も持っていない人の集団だった。
デメリットを防ぐために一緒にいるだけの集まり。
………………
友達が欲しい、一人になりたくない、それはどうしてだろうか?
成果を得た喜びを共感したいと言うならよくわかる。
しかし、奪われたことに目が向いて悪口で繋がった人間関係は、その場限りの関係で友達ではない。
ただ自己防衛の壁であり、ストレスの捌け口にすぎない。
そして、そこに集まる人は何かを成し遂げることすらしていない人達。

喜びを共感したいなら、「成果を奪わないで」ではなく、「一緒に仕事しよう」それを伝えないといけなかったのだ。

もっとも成果を奪う以外に成果を出せない人に通じることは期待できない。それでも人と仕事をしたいという意志を周囲に伝達するには、「奪った」事実への非難であってはいけなかった。
………………
客観的に見ると「人と一緒にいる」という点では同じだが、満たされた感情を共感する集まりと、悪口で繋がった人間関係は、自分が幸せかという点で全くの別物。

今の私を取り囲む人々は、
奪われるほどの成果すらあげていない人で、
自分に優しくしてくれなかった上司の人格を非難する人たち。

………………
人といたら寂しくない、それはなかった。
人といるのは、他者の成果を自分のものにして、そこに居座るだけのためだった。

一周して学び直したこと。

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