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『文化批判としての人類学』読解④-2
最近勉強する時間がとれていないのは悔しいことだ。ちゃんと本は読んでいるし頭も使っているのだが、アウトプットする時間をあまりみつけられていない。まさか本の一章を要約するのでさえ3回に分けなくてはいけなくなるなんて…
いちおう、前回はこちら。
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個人史
個人史は五つの手法の中でも内在的にモダニストのテクスト形式によ
『文化批判としての人類学』読解④-1
第3章:異文化の経験を伝えること——経験、自己、そして感情
文化がどれほど根本的に異なっているかを記述するのに有効なのは、〈人間〉の概念に着目することである。いかに世界的に生活が同質化され、公的な伝統が枯渇したように見えていたとしても、この差異は根強い。公的儀礼、コード化された信念のシステム、親族構造のような伝統的な媒体を人類学者はもはや利用することはできない現今、そこで文化の特異性を捉えよう
Environmental conservationistic antinatalistis’ narcissism
環境保護論的な反出生主義者のダメなところは、人間さえいなければなんとかなるという徹底的な人間を特権視した態度だ。
人間の力でなんとかできると思うことも、人間さえいなければなんとかなると思うことも、人間を含むさまざまなアクターのもつれあいから人間というアクターだけを純粋なかたちで取り出すことができると考えている時点で、どこまでいっても人間中心的なナルシズムだと思う。
残念ながら世界はそんな単純に
『文化批判としての人類学』読解③-2
解釈学的人類学の修正
解釈学的人類学の登場は60年代の人類学における三つの内部批判のひとつである。この批判によって人類学は行動と社会行動から離れて象徴や心性の探求へと強調点を移した。あとのふたつは、FWに対する批判と民族誌の非歴史性・非政治性の批判であった。
70年代に入ると、FWを激しく批判する傾向がみられるようになる。たとえばポール・ラビノウの『異文化の理解』やジャン=ポワール・デュモン
『文化批判としての人類学』読解③-1
第2章:民族誌学と解釈的人類学
19世紀後半の人類学は、人間すべてに当てはまる一般的科学をめざしていた。しかし、20世紀の最初の30年に、英米の学問状況において専門分化が進み、人類学や歴史学は多くの学問分野のひとつとなった。この潮流の中人類学は統一性に欠けた間分野的な位置に置かれるようになった。
この変化の中で、民族誌学が人類学の中心問題となった。民族誌学とは、人類学者が異文化でのFWの後で
コロナアプリとマイナンバー
新型コロナウイルス接触確認アプリCOCOAを使う程度のリテラシーの人が3000万人超もいる国にいてうっとりしている。
マイナンバーを登録するのと同じ類のリテラシーの低さ。
国家による固体管理に身を預けるなんてゾッとする。
マイナンバーが未来永劫正しく使われる保証なんてないのに。
キャプテン・アメリカの2作目見ろよ。
『文化批判としての人類学』読解②
第1章:人間科学における表象性の危機
現代は人文・社会科学全般で支配的だった観念を再検討する時代だ。さらには観念それ自体だけではなく観念が生じた思考のパラダイムもまた攻撃を受けている。社会科学においては、経験的調査研究に方向づけをあたえる、一般化する抽象的枠組みによって学問分野を組織しようという目標自体が揺さぶられている。
このような窮地に対する反応は、分野によってさまざまであるが、社会科学
『文化批判としての人類学』読解①
まえがき 1970年代以降に広がった社会科学(⇔自然科学)への不信は、あらゆる社会科学分野の再組織化をめぐる論争を促した。
しかし、このような論争は目新しいものではない。解釈論的理論が興隆しながらも、社会は自然科学と同じ方法で扱えるか否か(研究対象としての人間(=社会)は自然とは異なる方法で扱わなければならないのか)といった論争はこれまでにも行われてきた。
とはいえ各論争は時代の政治的・技術的