『文化批判としての人類学』読解④-1

第3章:異文化の経験を伝えること——経験、自己、そして感情


 文化がどれほど根本的に異なっているかを記述するのに有効なのは、〈人間〉の概念に着目することである。いかに世界的に生活が同質化され、公的な伝統が枯渇したように見えていたとしても、この差異は根強い。公的儀礼、コード化された信念のシステム、親族構造のような伝統的な媒体を人類学者はもはや利用することはできない現今、そこで文化の特異性を捉えようとしたとき、外見以上の意味のシステムを文化的に説明するしか人類学者のできることはない。人間に着目するとは、それを行うことだ。
 それは、人類学者が用いる、対象の表象化の枠組みに埋め込まれた、人間の能力に関する自分中心主義的な過程と対立することになる。たとえば、20世紀初頭に台頭した「方法論的個人主義」は、社会理論によって記述されるすべての行為は行為者個人の行動と洗濯という観点において原理的に説明可能でなければならない、というものである。しかし、ルイ・デュモンはインドの民族誌で、個人が一つの肉体ではあるが、自立した社会的地位を持たない、大きな単位の一部分であるような個人の概念を提示し、「方法論的個人主義」に挑戦した。(~p.97)

 こうした対象は民族誌において目新しいものではなく、モースやフロイトの企てなどが先行している。では何が新しいかと言えば、この現代の実験的試みにおいては汎人類的な進化の流れの一部としてではなく、こうした文化理解がいかに文化的に変わりうるかをさらに的確に把握している点である。さらには、勘定や経験は、それを表現するための多様な媒介様式に注意を払っていなければ直接的理解は不可能であり、文化を越えてそれを伝えることはできないと認識している点である。実験的民族誌では、個人の概念やその構成要素、思考様式、性差、適切な感情表現といったものが、異文化の視点の内部で理解されている。(~p.98)

 このような関心にこたえようとすると、機能主義的な民族誌とは別種の枠組みが必要となる。今日では、社会的活動よりインフォーマントが民族誌学者に与えた自文化の説明に表れる、分類範疇や隠喩、表現法に関心が払われている。たとえば、クリフォード・ギアツの論文「バリ島における人間・時間・行為(1973)」はこの動きを生起するのに貢献した。ギアツは、バリ島の人々が西洋人とは異なるしかたで経験の範疇を形成し、西洋人のものとは異なる人間観や感情の構造を持っていることを指摘した。ギアツはそれを、バリ島の人々の心を語る際に心理学に訴えかけることはせず、名付けや時間計算、ライフサイクルと儀礼行為などを通したバリ島の観察から導き出しているアメリカ人の親族関係に関するデーヴィッド・シュナイダーの研究は、「人間」「親族」「血縁者」といった用語が中立的な客観的分析単位ではないことを同様に論証している。こういった民族誌は、文化的に定式化された人間の範疇を、文化固有の状況に即したかたちで引き出そうとしていると同時に、我々にとってあたりまえに思われがちな自身の範疇を脱親和化することによって、人間観の構築性をあきらかにし、いかある社会においてもそれは経験的調査の対象となることを主張した。(~p.101)

  現代の民族誌には、自己の省察から調査対象の置かれた状況を問題に付し、文化の翻訳が抱える哲学的・政治的問題を探っているものがある。もはや自民族中心主義的な読者に対し、現地の人々のなりの合理性にうったえかけることは不可能となっている。(~p.102)

 以下では、議論を簡略化するために、「人間」を扱った現代の実験的テクストを、3つのグループに分けて論じる。すなわち、心理力動的テクスト、写実主義的テクスト、モダニストのテクストである。(p.102)

 心理力動的テクストは、異文化社会を研究することでフロイト的分析の原初の研究領域を再吟味している。すなわち、社会関係や無意識のような「深層構造」の力動性を意識化して理解することと、両義的で脆弱な象徴が確固とした文化の理論形式として変化していくことの愛阿野、体系的な関係性をたどる可能性に再び開かれている。たとえば、文化的背景として文字がさほど重要ではない文化では、心理的力動性を調べるための別の手段を引き出す必要がある。
 例:ロバート・レヴィ『タヒチ人:島社会における心と経験』
民族誌を書く際、いかに文化本来の姿に暴力的に介入することなしにフロイト的分析概念を用いることができるか、いかにして文化的に定式化された心象システムが生まれ、社会経済的な力の影響を受けてそれが変化していくかを明らかにしている。(~p.107)

 要約すると、心理力動的テクストにおける現代的な実験的試みの特徴は、従来の心理学的理論の追認というよりは、経験、感情、自己に関して、あるいは夢、記憶、連想、隠喩、置換に関して、または転移、強迫反復行動に関して、言説を示すことである。こうした言説は、公的な文化形成を反映したり、それと対照をなしたり、それによって曖昧にされたりしている現実のなかで、行動や思考の一次元を開示している。こうした心理力動的テクストが具体的に示しているのは、文化固有の経験の次元を明らかにするために、人間の概念や感情についての現地の言説、人間の概念をめぐって、いかにして民族誌を特定なものとし、組織可能かという点である。(P.112)

 写実主義的テクストは、公的な文化形成とその下で行われる心理力動的な調査とは異なり、分析の出発点を公的な常識世界から引き出してくる傾向にある。写実主義的テクストは分析者の優位な地位を担保しており、文化的経験はある距離を保ちながら表彰される。写実主義的テクストはマリノフスキーとラドクリフ=ブラウンによって創始されたが、現地調査を行うという現地への現前性によって権威を獲得した。それ以上に興味深いのは、調査過程とテクストの両面で、部分によって全体を表象するという機能主義の戦略に正当性が与えられたことで、FWという方法への確信が生まれた。ある一部分の説明は、文化全体を必然的に喚起するのである。(~p.114)

 機能主義理論とそれをもとにしたFWの記述法を明示したために民族誌の発展の決定的な転換点となっているテクストが、E=Eの『ヌアー族』とヴィクター・ターナーの『アフリカ社会における分裂と持続』である。
 E=EはFWがほとんど不可能な状況においてさえ、訓練された民族誌学者ならば社会に分け入り構造的理解を得て帰ってくることができることを示している。E=Eのテクストの問題は、上梓当時から指摘されている通り、その範囲が狭すぎることにある。E=Eのテクストはあまりに「問題中心的」であり、対象文化や社会の包括的な全貌を提示することはしていない。
 ターナーの『分裂と持続』は、マンチェスター学派の流れをくむ。個々の行為者、社会構造、社会劇に注目を向ける。社会劇において、複雑な現実生活での出来事を語るなかで、構造、慣習、個々人の三社間の相互作用が示されるのである。マンチェスター学派は、個人の利害と社会的諸力の対立、解決されることで社会構造的規範や制裁が強化される葛藤を注視している。ここでは事例は劇形式で語られ、イデオロギー的な社会規範を感情的に受け止められる個人の願望に変換する儀礼を分析するために用いられる。(~p.117)

 これらの主流な写実主義的伝統における今日の実験的試みを際立たせるのは、テクストを提示する際に自らが用いる手段について作者が自覚的である点、経験を描写するために現地の人々が用いる参照枠組みの公開に作者が留意する点である。表現形式に自覚的であることで、記述される文化と対照される作者自身の文化の認識慣習を解放し、手中に収めようとする。認識論においてこのように洗練されたことによって、概念・記述の両者において、比較認識論、美学、感情の問題をよりうまく追及できるようになってきたのである。その実例を示すために、民族誌を提示する際の「常識的」な五つの枠組みを紹介する。すなわち個人史、ライフサイクル、儀礼、美学的ジャンル、葛藤という劇的出来事である。これらは機能主的様式で用いられてきたが、機能主義があつかってきた範囲を超えて使用されつつある。(~p.118)


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