ラヂオ体操第2

人類学を専攻していた元限界院生。現在は某版元で出版人見習い中。大学院では歴史学と考古学…

ラヂオ体操第2

人類学を専攻していた元限界院生。現在は某版元で出版人見習い中。大学院では歴史学と考古学、ANT、科学技術社会論などを考えてました。今は書物の存在様態に興味があります。 ストリートスポーツ実践者、スワローズ応援者。

最近の記事

『文化批判としての人類学』読解④-3

前回はコチラ -------------------------------------------------------------  モダニストのテクストは、どのような民族誌的FWの状況においても、部内者と部外者の視点の交流から生じる。ここでモダニストという言葉を用いるのは、19世紀後半から20世紀前半の文学運動を念頭に置いているためである。写実主義のテクストは、記述は民族誌学者によって操作可能であるという誘惑をもっているが、モダニストのテクストは民族誌学者とインフォ

    • 『文化批判としての人類学』読解④-2

      最近勉強する時間がとれていないのは悔しいことだ。ちゃんと本は読んでいるし頭も使っているのだが、アウトプットする時間をあまりみつけられていない。まさか本の一章を要約するのでさえ3回に分けなくてはいけなくなるなんて… いちおう、前回はこちら。 --------------------------------------- 個人史  個人史は五つの手法の中でも内在的にモダニストのテクスト形式による実験的試みを志向する。クラパンザーノ『トゥハミ』、ショスタック『ニサ』は、人類

      • 地雷系

        「将来なにになりたいですか」「あなたの長所は何ですか」みたいな紋切り型の質問に典型的に現れる、何者かでいなければならない、そして常にそれを提示し続けなければならないという強迫観念に疲弊した人にとって、「地雷系」みたいな、表層から一目でわかる属性を身につけるのって、とても楽だしある意味理に適っているのかもしれない。「オタク」の意味合いが軽くなってきたのも似てる。でも実際のところそうした強迫観念に乗っかる必要性もまったくないんだけど。 あの、リモートワーク始まったはいいんだけど

        • 『文化批判としての人類学』読解④-1

          第3章:異文化の経験を伝えること——経験、自己、そして感情  文化がどれほど根本的に異なっているかを記述するのに有効なのは、〈人間〉の概念に着目することである。いかに世界的に生活が同質化され、公的な伝統が枯渇したように見えていたとしても、この差異は根強い。公的儀礼、コード化された信念のシステム、親族構造のような伝統的な媒体を人類学者はもはや利用することはできない現今、そこで文化の特異性を捉えようとしたとき、外見以上の意味のシステムを文化的に説明するしか人類学者のできることは

        『文化批判としての人類学』読解④-3

          〈生〉とは

          性交渉によって感染する遺伝性の死に至る病である。 私が生まれる前に生まれることに対して合意をしたという事実が存在せず、また当の合意の存在が明らかに立証不可能であ限り、あらゆる「義務」や「責任」などというものとは本来無意味なものである。私は私の意志によって行動しているということも、私の意志によって生きているということも不確かなのだから。

          食えぬ

          コロナに罹患してからというもの、回復した後も食欲が戻らない。悲しい。食べることは今生のかなり少ない楽しみの一つだというのに、ぜんぜんお腹が減らない。いや、もしかしたらこれはただの夏バテなのか…? 科学と客観性について、Twitterでなんか見たのですこす考えたこと備忘録。。 ラトゥールを院生時代に読み漁っていた程度の所感では、科学に客観性が必要なのではなく、客観性なるものが科学的操作の結果として生じる効果なのであって、むしろ客観性こそが科学を必要としているのではないか。

          リモワ開始

          とうとう来週からリモートワークが始まる。 会社の人たちは、やっぱり出社してほしいみたいだけど、世界がこれだけ変わってるんだから、あなたたちも変わらずにどうするって思う。 今日お昼に食べた四川料理。美味しかったしなんかよくわからない香辛料が効いてて美味しかった。美味しかったって二度言っている。経験はつねに記述を超えてしまうのは、食レポをしようとしたとき強く感じる。記述という様式の、記述対象を汲みきれなさ。 きっと香辛料の名前とかそれぞれのスパイスの風味を知っても、次はそれが

          Environmental conservationistic antinatalistis’ narcissism

          環境保護論的な反出生主義者のダメなところは、人間さえいなければなんとかなるという徹底的な人間を特権視した態度だ。 人間の力でなんとかできると思うことも、人間さえいなければなんとかなると思うことも、人間を含むさまざまなアクターのもつれあいから人間というアクターだけを純粋なかたちで取り出すことができると考えている時点で、どこまでいっても人間中心的なナルシズムだと思う。 残念ながら世界はそんな単純にできていない。今さら人間くらいがいなくなったところでどうにもならないだろうし、実

          Environmental conservationistic antinatalistis’ narcissism

          復帰狩り

          先週金曜日にコロナに罹って、10日間の療養・隔離を終えてようやく職場に復帰した。 しかし完全快調とは程遠い。咳はまだのこっているし、ずーっと頭と身体がだるい。何が辛いって、息苦しさがまだ残ってしまっている。なんなら発熱していたときよりも若干しんどい。 東京の感染者は2万人を超えた。おそらくここからまだ増えるだろう。 僕が所属するのはそこまで大きくない版元だから、一人ひとりが負っている仕事の比重が重く。誰かがコロナに罹ると一気に会社が傾いてしまう、なんてこともあり得る話で。

          『文化批判としての人類学』読解③-2

          解釈学的人類学の修正  解釈学的人類学の登場は60年代の人類学における三つの内部批判のひとつである。この批判によって人類学は行動と社会行動から離れて象徴や心性の探求へと強調点を移した。あとのふたつは、FWに対する批判と民族誌の非歴史性・非政治性の批判であった。  70年代に入ると、FWを激しく批判する傾向がみられるようになる。たとえばポール・ラビノウの『異文化の理解』やジャン=ポワール・デュモンの『首長と私』は、FWで出会う人類学者と文化的他者の間の実質的な対話について語っ

          『文化批判としての人類学』読解③-2

          『文化批判としての人類学』読解③-1

          第2章:民族誌学と解釈的人類学  19世紀後半の人類学は、人間すべてに当てはまる一般的科学をめざしていた。しかし、20世紀の最初の30年に、英米の学問状況において専門分化が進み、人類学や歴史学は多くの学問分野のひとつとなった。この潮流の中人類学は統一性に欠けた間分野的な位置に置かれるようになった。  この変化の中で、民族誌学が人類学の中心問題となった。民族誌学とは、人類学者が異文化でのFWの後で、記述されるべき細部を強調しながらその文化について書く調査研究過程である。民族誌

          『文化批判としての人類学』読解③-1

          コロナアプリとマイナンバー

          新型コロナウイルス接触確認アプリCOCOAを使う程度のリテラシーの人が3000万人超もいる国にいてうっとりしている。 マイナンバーを登録するのと同じ類のリテラシーの低さ。 国家による固体管理に身を預けるなんてゾッとする。 マイナンバーが未来永劫正しく使われる保証なんてないのに。 キャプテン・アメリカの2作目見ろよ。

          コロナアプリとマイナンバー

          『文化批判としての人類学』読解②

          第1章:人間科学における表象性の危機  現代は人文・社会科学全般で支配的だった観念を再検討する時代だ。さらには観念それ自体だけではなく観念が生じた思考のパラダイムもまた攻撃を受けている。社会科学においては、経験的調査研究に方向づけをあたえる、一般化する抽象的枠組みによって学問分野を組織しようという目標自体が揺さぶられている。  このような窮地に対する反応は、分野によってさまざまであるが、社会科学ではすでに制度化している実証主義に対する攻撃にあらわれている。(~p.33)

          『文化批判としての人類学』読解②

          売れない研究

          「売れない研究は意味がない」という旨の発言をしたら、なんだかものすごい拝金主義者、資本主義の犬、みたいな反応をされた。 うーん、なんか勘違いをされたのかもしれないが、何も「売れ筋の企画だけ作れ」とか「大衆ウケする研究をもってこい」という意味ではもちろんない。 言いたかったことは、市場経済的な販売動線にのせ、大衆への流通を意識しつつも、その流通経路や売れるシステムそのものを率先して組み替えるような研究や本を意識する必要があるということだ。 資本主義的なもの、大衆的なものに

          毎日ご飯

          ほとんど毎日自炊しているし、お昼にはお弁当ももっていく。 これって本当にすごく体力を使う。毎日帰り道に何を作るか考えて、帰ったら野菜を切って肉や魚を焼いて、食べ終わったら食器や調理器具を洗って片付けて。栄養バランスとか旬のものとか何が安いかとかも気にしながら。 洗濯物も2日にいっぺんは回している。形を崩したくないものはネットに入れて、種類ごとに干して、帰宅したら洗濯物を取り込んで畳んで。 生きることって体力は使わないけど、ちゃんと生きることって知力も気力も体力もまま使う。

          『文化批判としての人類学』読解①

          まえがき 1970年代以降に広がった社会科学(⇔自然科学)への不信は、あらゆる社会科学分野の再組織化をめぐる論争を促した。  しかし、このような論争は目新しいものではない。解釈論的理論が興隆しながらも、社会は自然科学と同じ方法で扱えるか否か(研究対象としての人間(=社会)は自然とは異なる方法で扱わなければならないのか)といった論争はこれまでにも行われてきた。  とはいえ各論争は時代の政治的・技術的・経済的状況を反映しており、現代(1980年代)において問題となっているのは、ポ

          『文化批判としての人類学』読解①