『文化批判としての人類学』読解①

まえがき

 1970年代以降に広がった社会科学(⇔自然科学)への不信は、あらゆる社会科学分野の再組織化をめぐる論争を促した。
 しかし、このような論争は目新しいものではない。解釈論的理論が興隆しながらも、社会は自然科学と同じ方法で扱えるか否か(研究対象としての人間(=社会)は自然とは異なる方法で扱わなければならないのか)といった論争はこれまでにも行われてきた。
 とはいえ各論争は時代の政治的・技術的・経済的状況を反映しており、現代(1980年代)において問題となっているのは、ポストモダン世界を社会対象としてどのように表象することができるか、ということである。
 現代人類学においては急激に変化する世界において社会的現実としてどのように表象できるかという核心的問題である。(~p.10)

 こうした「現在」において、民族誌的調査や民族誌執筆は以下のような実験的な試みになりうる。
① 私たちの社会に対して示唆に富む批判を提出すること。
② 私たちのやり方は多数の中の一つにすぎないことを自覚し、他者の人間可能性について私たち自身を反省的にとらえ直すこと。
③ 私たちの生の基盤となっており、さらにそれをもとに異文化の人々と接触してしまうような暗黙の前提を意識的に取り出すこと。
 つまりは、人類学とは自己反省と自己成長のために文化的豊かさを用いることだ。こういった実験的試みによって、人類学的理論を根底から立て直すことが可能となる。(~p.14)

 実験的試みは、反–パラダイム的思考、対象への批判的・反省的視点、研究活動の外部の作用因への着目、フィールドワークの計画・実行の失敗などによって特徴づけられる。

1)反–パラダイム的思考
 従来の人類学理論に関する議論は、パラダイム的思考様式の範疇から抜け出せていない。パラダイム的思考では、調査対象は統一された〝理論システム〟によってなされる(べきである)と考えられている。こうした思考様式に従って議論するとなると、パラダイムを擁護するか、新しいパラダイムを主張するか、異なるパラダイムの衝突を見出す無責任な俯瞰的位置に立つかしかない。
 人類学の状況に即して言えば、解釈学的パラダイムが実証主義[i]的パラダイムに挑戦する、という図式になる。しかしこういった議論の筋道は、言説のパラダイム的様式そのものが徹底的に問題にされているこの時代の本質的な特徴を取り逃がしてしまう。われわれの議論はこのような立場とは異なる。(~p.15)

2)研究活動外部の作用因への着目
 人類学を含む社会科学の不確かさは、現在の知的危機や大学に関する制度的危機、専門職の危機とも連動している。人類学を含めた調査研究に対する政府の関心は減少し、経済的援助も同様に減少している。大学の教授職・研究職も減少し、大学院でも人類学よりも実学を専攻する学生が増えている。陣留学で博士を取得した者でさえ他の職業に移る。研究者は以前にもまして孤独であり、彼らが書いたものは大学院生のような新しい世代よりも同世代に読まれる。資金援助の担当者や現地で調査許可を与える担当者は調査研究者を軽視する。この結果が、資金援助を得るためには応用研究を創作したり、援助者の要求に沿うように研究方針や計画をでっちあげてしまうなどの事態だ。
 こうした絶望的な大学環境にあって、研究分野は断片化し統合性が欠如した結果、若い研究者は自らの師に対して尊敬のふるまいを見せず、学問分野内で自由にふるまい、実験的試みを企てていった。(p.17)

 以上の二つの危機は関連しあってはいるが、本書で強調したいのは、この状況は人類学の歴史的発展と、現世界での政治・経済・社会的変化が合流したためであり、それに対して人類学はどのように知的対応を取ったのか、という点だ。
 こういった点は、人類学の制度的状況というよりは、民族誌的記述をめぐる諸問題がなぜ現在際立って問題となっているのかを理解しようとする際に重要となる。(p.18)

序章

 20世紀の社会/文化人類学は二つの面で読者=西洋人を啓蒙しようとしてきた。ひとつには、ロマン主義的・科学的目的のもと、西洋化の波から各文化を保護・救出するもの。もうひとつは、わたしたち自身の文化批評の一形式として人類学を役立たせようというもの。後者は前者ほど十分実現されているとは言い難い。異文化の方を描き出すことで自分たちのやりかたを自己批判的に反省することは、人類学が常識を瓦解させる一つの方法であり、当然のように思える前提を再検討させることができるはずだった。(~p.21)

 近年の二つの論争は、こうした目的を標榜してきた人類学がどのような窮状に陥っているのかを表わしている。二つの論争に共通しているのは、非西洋の人々を描写する際の歪みである。
 エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は、非西洋社会を表象するために西洋において作られた書式のジャンルへの攻撃である。すなわち、対象を受動的位置に固定化し、西洋人たる作者を、彼らを「代弁」する、能動的な位置に置く修辞的手法である。この修辞法はそれ自体が権力であり、植民地支配的な構図を保存している。ここで抜け落ちてしまうのは、書き手と同じ妥当性において彼らもものを見ているのだという認識である。
 とはいえサイードは、では適切な表象の形式はいかなるものか、という問いには答えてはいない。そのうえ、表象の対象となる人々の間の政治的・文化的差異区分さえもサイードは認めていない。(~p.24)

 サイードの論争が主に研究者間に衝撃を与えたのに対し、デレック・フリーマンによる『マーガレット・ミードとサモア』[ii]は、より広範にわたる論争を巻き起こした。
 なぜミードへの攻撃がこれほどまでに一般の読者の目を引いたのだろうか。フリーマンの科学論争的著書は、人類学的知識は不正確でいかがわしいものだと暴露し、一般読者はそれにより騙されていたという感覚を抱くようにしむけられた。これによって人類学の自己批判的反省という能力は窮地に陥ってしまった。
 こうした論争が提示する教訓とは、文化的他者について人類学が提出する知識は、科学的確かさや精度といった考え方に従って受け入れられなくなってしまったというものである。そうであるならば、いかなる正当性において自己批判的知識は提示されうるのだろうか。(~p.26)

 本書の課題は、これまでにあげた二つの窮地に対してどのような対応がなされ(うる)かを検討することだ。サイードの批判に対して人類学は、文化の同質化が進む中で文化の差異の表象の困難に敏感に向き合うことで対応し、また、過去の研究が巧妙に隠した歴史・政治・経済的現実を細部にわたり取り上げることである。
 二番目の批判に対しては、異文化を記述していく中で自分や自文化に対して細部にわたる反省を行っているかを一つの対応の指針にできる。             (~p.27)

 こうした批判への対応は、人類学の記述形式や修辞法の問題であり、それは人類学内部で統一的な理論や議論の様式が見られなくなった時代において、依然中心的価値をしめている。
 どうして〈記述〉が人類学内外で現代における重大関心事となっているのだろうか? という問いを、本論を始める前に提示しなければならない。これは人類学外部でいえば、社会の一般理論を目指す動向から、文学批判に刺激されて社会的現実の解釈と記述を巡る議論への移行がなぜおこったのかという問いであり、人類学内部では民族誌という〈疑似文学〉がいかにして中心的位置を占めてきたか、そしてそれは現在いかなる変化を被りつつあるのかという問いである。

コメント……

 〈記述〉ってやはり人類学の中心なんだな、と。そして自分が好きなストラザーンやラトゥール、ヴィヴェイロス=デ=カストロの議論と重なる、異文化接触の中で自らの前提を問うという発想がすでに出てきていることには驚く。70年代の論争は目新しいものではないと言っていたが、2020年代現在の議論もそういう意味ではさして目新しくはないのかもしれない。とはいえ著者が言うようにこの「目新しくなさ」は円環的というよりは螺旋的な運動として捉えらえるわけで、何がこのときの議論に足されているのか、あるいは足されていないのかを考えることが重要な気もする。それはこれから続く各章を読んでからということで。



[i] 本文注3は非常に興味深い。原文ママで載せる。

 「「実証主義」という用語は、いよいよ誤って定義されたスローガンになりつつある。現在支配的な社会科学のスタイルに攻撃が下されるたびに、この用語はしばしば侮蔑を込めて使われる。理論的形式主義と量的測定を信頼し、自然科学の方法を理想とあおぐ知識のあり方を「実証主義」は意味したのである。しかしながら歴史的に見てみると、実証主義という用語はそれとはまったく違うもくろみを指していた〔中略〕。測定可能な実体としての事実の同定することを基盤とする科学への態度が漠然と実証主義と呼ばれており、われわれもこの意味で実証主義という用語を用いている。(pp.321-322)

 これはかなり自分も反省しなきゃいけないんだけど、やっぱり仮想的としてこういう素朴な意味での「実証主義」をやり玉に挙げている人は多いけれども、それとはまったく違うものだ、と著者は言っている。倒すべき敵も簡単ではないのだ。

 

[ii] ミードのサモア社会におけるセクシュアリティに関する研究に対し、あるサモアの少女のインタビューをもとに異議を述べた著書。フリーマンは、サモアの文化においては、若者が性を探求することにつき多くの制限は課せられていないというミードの主張は、ミードのサモアの文化に対する誤解に基づくものだとした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?