『文化批判としての人類学』読解④-3

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 モダニストのテクストは、どのような民族誌的FWの状況においても、部内者と部外者の視点の交流から生じる。ここでモダニストという言葉を用いるのは、19世紀後半から20世紀前半の文学運動を念頭に置いているためである。写実主義のテクストは、記述は民族誌学者によって操作可能であるという誘惑をもっているが、モダニストのテクストは民族誌学者とインフォーマントの間から引き出される言説や読者を分析作業に巻き込むことに焦点を当てている。そこでは、テクスト空間はインフォーマントが自身の声を持つための場となる。このような発想は、伝統的な意味での民族誌の目標からの逸脱でもある。(~p.136)

 モダニストの民族誌学者は、文化(コード/システム)の一貫性というものに対して少しも確信をもっておらず、それゆえ語られたことの直接性やFWでの対話経験に専心するのである。このようなテクストは民族誌を読んだ者を攪乱し、民族誌の存立基盤そのものを揺るがしうるが、そういった戦略は人類学者大半にとって受け入れがたいものとなっている。
 モダニストが関心を寄せる対話という隠喩は、ときおり字義通りに受け取られたり、哲学的に抽象化されてしまいがちであるが、実際にはテクストの内部に多元的な声を現前させ、多様な視点から読むことができるようにする実践的な努力を意味している。本書でもこの意味に沿って対話を扱う。(~p.137)

 まずは、モダニスト的探求の二つの危険性と一つの批判を指摘する。モダニスト的探求は、単なるフィールド経験の告白になってしまったり、一人の民族誌学者の体験からの一般化が不可能なほど個別化してしまうことがある。この二つの危険性の下では、人類学者とインフォーマントの間での対話は排他的かつ一時的なものになりかねない。
 このような危険性への批判としては、民族誌学者が記述する側である限り真の対話は実現されえないし、根本的に確実な方法で対話をすることは不可能であるというものがある。音声的言説が不安定なものであり、対話は両方の側から絶えず監視と修正を受けているならばテクストというものは言説を再現するためには不十分であるということだ。
しかし、いかなるものであれ文学的言説(テクステュアリティ)における対話様式が何を伝達可能かを見ることが重要である。ここでは四つの修辞学的選択が可能である。すなわち、対話、言説、(人類学者とインフォーマントの)共同的テクスト、シュールレアリスムである。(~p.138)

 対話的な相互交換に焦点を当てることは異文化経験を反省してみることであり、それによって自分かにおける現実の定義は姿を変えてしまう。こうしたテクストは、異文化での思考法を学ぶことで意識の変容を人類学者が経験することを旨としている。こうした試みにおいて重要なデータは、民族誌学者の記憶であり、フィールドノートや日記がそれを補い、現場での反応、連想、夢、インフォーマントの情報に対する省察がそこに含まれる。対話的テクストは、テクストとは限定されたものではないこと、他人が従わなければなあらないモデルを意味していないこと、人類学者・読者・インフォーマントといった参与者すべてがもつ影響の受けやすさ(ヴァルネラビリティ)を浮かび上がらせる方法なのである。(~p.140)

 言語的相互作用が持つ呪術性や創造性がどのように表現されるかという観点からテクストを組み立てる戦略を、言説的モデルと呼ぶ。このモデルは、音声的言説の行為性を主張し、それをテクストによって把握するという問題に重きを置く言語哲学を引き合いに出す。例を挙げれば、J.ファヴレ=サアーダの『致死の言葉』である。フランスの片田舎で呪術が示す修辞学的戦略に巻き込まれてしまった著者の経験を語り、それによって「呪術とは古代の民間伝承であり、基礎的な社会的規制のメカニズムである」という読者の呪術への理解の基礎を危うくしている。この見方にかわって、田舎に対すると海神の見方はいかに自己中心的であるか、田舎の人々は部外者に対していかに排他的かを明らかにする一種の文化的衝突の言説として読者は呪術をみなすようになる。このテクストは読者を受け身の立場に置き、呪術に対する「わからなさ」に読者を巻き込みつつ、呪術の言説に加入させてゆく。
 以上の二つのテクストには、多少明示的に人類学者が属する社会/文化への批判が垣間見える。(~p.141)

 第三の戦略は、インフォーマントと人類学者が一緒になって構成する共同テクストである。こうしたテクストは、たとえばモーリス・レーナルトのように、探求という作業に相互に巻き込まれていく過程を通じて、自己省察という鏡を与えることを目的としている。レ―鳴門はこの鏡が刺激の役割を果たすことで、インフォーマントたちのあいだで批判的な発想や変容が生じ、結果としてインフォーマントがキリスト教的に教化されるだろうと考えていた。(~p.142)

 第四のテクスト的戦略はシュールレアリスムである。ここで再びクラパンザーノの『トゥハミ』に立ち戻る。このテクストはモダニストのものとしてもっとも傑出したものである。『トゥハミ』では、個人史やインタビューからの引用を一つの謎として読者に提示している。トゥハミは生き生きとした隠喩があればそれを利用し、自らの苦悩やジレンマを伝える。そのような隠喩はいわゆる「現実的な」ものもあれば幻想的な過去に由来している場合もある。クラパンザーノは幻想という精神状態/言説的隠喩は伝達手段として有効な場合もあると考える。しかしそれを解釈するとなると、写実的様式に比べてさらに複雑な技術を要し、さらには解釈による歪みをインフォーマントにおしつけることになりかねない。そのため、クラパンザーノはテープを文字起こししたものを提示し、読者に解釈の過程に参加させる。クラパンザーノはそうすることで記述に対する自らの権威性を抑え、読者に過程に能動的に参加を促す余地が生じる。
 『トゥハミ』のテクストはその対象自体が複雑であり、またテクストが高度に編集されており、さらにはトゥハミの言葉を解釈する際に彼が面した謎に読者を読者に示している。クラパンザーノのテクストは、それが記述する一連の相互作用が持つ断片的性質を複製しているのである。そのためこのテクストは、写実主義の伝統を一歩超えており、直接的な表象化よりもひとつの現実を喚起するために写実主義を全く異なるやり方で用いている。(~p.145)

■感想・コメント
 ストラザーンを院生時代にがっぷり四つで組み合っていたものとしては、やはり「喚起」といったワードや問題意識の端々に『部分的つながり』との関連性を見出す。まあ『部分的つながり』書かれたのもこれくらいの時期なんだけど。

クラパンザーノの『トゥハミ』(邦訳では『精霊と結婚した男』?)、やたらと出てくるけど、3章の最期になってようやくそのすごさが語られた。テクストのあり方自体が観察された事象の性質を複製するっていうのは、僕が読んでて一番好きなタイプの民族誌かもしれない。修士論文ではサーリンズのハワイの人々に関する記述/分析がハワイの人々の円環的歴史観を複製(しようと)しているということの可能性を、保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』と並置しながら論じようとして盛大に空中分解したんだけど、クラパンザーノを読んだら議論の補助線として活用できたのかな、と思った。とりあえず『精霊と結婚した男』ポチろう。


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