『文化批判としての人類学』読解④-2

最近勉強する時間がとれていないのは悔しいことだ。ちゃんと本は読んでいるし頭も使っているのだが、アウトプットする時間をあまりみつけられていない。まさか本の一章を要約するのでさえ3回に分けなくてはいけなくなるなんて…

いちおう、前回はこちら

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個人史

 個人史は五つの手法の中でも内在的にモダニストのテクスト形式による実験的試みを志向する。クラパンザーノ『トゥハミ』、ショスタック『ニサ』は、人類学者とインフォーマントの関係を熟考し、個人史の引き出されかた、構築されかたを明らかにし、新たな対話モデルを提示している。このような今日的な実験的試みは、いかなる個人史であれそれを構成する際に現れる複数的視点や、インタビューする側とされる側の関係の変化のダイナミズムを探求する。(~p.120)


ライフサイクル

 ライフサイクルは個人史と密接に関係し、文化における人間的経験やその質に対する説明を組み立てていくことに用いられる。ここでは、特定の個人の人生の細部を調査することで、各個人が経験する典型的な人生の段階や事件といったものに強調点を置く(いかに人間的経験が文化的に構築されるかではない)。(~p.124)


儀礼

 従来、儀礼は感覚や感情を理解するための適切な媒介であり、経験に意味を与えるものだとしてきた。そこでは儀礼は公的なものであり、しばしば神話を伴っており、民族誌学者が体系的に読みうる文化テクストに例えられるため、経験的にはるかに近寄りやすいものであった。

 クラパンザーノ『回帰の儀礼』は上のような発想を疑問に付し、反復される生活状況のなかで人々が受け止める両義的な文化的メッセージによって、人間の中で不安が生まれ形をなしていく過程に儀礼を結び付けている。

 彼の説明の革新的なところは、文化固有のものである人間の条件に最も深くかかわる経験を儀礼がどのように形成しているかを具体的に提示している点である。(~p.128)


美学的ジャンル

 この手法は儀礼などに比べてさほど発展してはいない。このテーマの新しさは、因襲的なアプローチに比べて儀礼における表現の次元を吟味している点にある。異文化における経験の絶対的な了解など存在しないため、そうした了解の洗練の度合いは、「ともに経験することができるのか」、異文化における美学とそれがもたらす批判のための手がかりの間を往復しつつどこまで翻訳が可能なのかという能力にかかっており、実験的試みはこの点に重点を置く。


劇的出来事

 FW中に起こる劇的な出来事は、民族誌学者が社会構造の原理や文化的意味の範疇をめぐる議論と、社会生活でおこった事件の重い経験の描写とを関係づけることを可能にする。たとえばブラッド・ショアの『サライルア』ではサモアで起こった殺人事件の顛末をもと書かれているが、そこでは村落に関する構造的な説明と、生活・政治をめぐるサモア人の規則を、サモア社会において葛藤が内在する機構を確認するための背景的説明として殺人事件を描くのである。(~p.133)

 以上のような写実的テクストは、形式においては比較的伝統的なものであるが、それが実験的であるのは、それらがどのようにして記述のために自らの枠組みを展開し、文化的境界を超えて経験の差異を表象するためにどのような認識論的問題を提起しているか、という点においてである。

 こうした点に着目することは同時に、社会構造、政治、経済といった問題を記述するという従来の民族誌の役割から離れていくということでもある。従来の役割と新たな視点をどのように接続していくかはこれからの実験的試みの残された課題である。今日、社会/文化人類学において理論を構築するということは、民族誌の書法における過去の因襲を修正するようなテクスト的戦略をあみだしていくことである。(~p.135)

つづく…

本当は感想や考察も書きたいんだが、なんか夏バテか仕事イヤイヤ期かわからんが何も手につかないという状況。

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