『文化批判としての人類学』読解③-2

解釈学的人類学の修正

 解釈学的人類学の登場は60年代の人類学における三つの内部批判のひとつである。この批判によって人類学は行動と社会行動から離れて象徴や心性の探求へと強調点を移した。あとのふたつは、FWに対する批判と民族誌の非歴史性・非政治性の批判であった。
 70年代に入ると、FWを激しく批判する傾向がみられるようになる。たとえばポール・ラビノウの『異文化の理解』やジャン=ポワール・デュモンの『首長と私』は、FWで出会う人類学者と文化的他者の間の実質的な対話について語っており、これは解釈学的人類学において焦点が文化内/間コミュニケーションへと移動したことを物語っている。両者はFWが置かれた歴史・政治的文脈についても細部にわたり感受しており、人類学への第三の批判にも留意している。(~p.78)

 三つの批判が人類学者の意識をどのように変えつつあるかを検討するためには、民族誌学的調査研究それ自体に与えた影響を精査する必要がある。これらの批判は、フィールドに入る段階(人類学者が異文化に熱中する段階)と、FWから持ち帰った知識を各段階の二つにおいて衝撃を与えた。
 人類学者は、世界経済へと第三世界も統合される現代において、ロマン主義的に「いまだにこんなことをしている」他者を求めているのは事実である。さらには、FW地を選定する過程で研究を行うことになる国や社会の「近代部門」からの協力と援助をもとめるのも普通のこととなっている。しかし、人類学者の描くフィールドが、読み手から見て素朴で遅れたものだと受け取られている限りにおいて、いかに人類学者が政治・経済・歴史的な背景を意識していたとしても、人類学者のフィールドにおける専門家としての自己認識やFWから何かを書き出すやり方に、このような意識は何ら影響を与えてはいないのである。(~p.80)

 自国での表象化批判と第三世界における現実的変化の結果、人類学における伝統的なフィールドはもはや見出すことも想像することも難しくなった。このような傾向の中でも最も重要なものは、これまで人類学者の関心の対象となっていた人々が、人類学者に順応してしまったり、人類学者が用いる言葉を採り入れてしまうことである。インディアンのインフォーマントがアルフレッド・クローバーの本を持ち出してきたという逸話などが多々ある。
 従来人類学の対象となってきた人々は、自分たちに与えられた地位をよく理解しており、彼らについての人類学的知識を彼ら自身が自らを見る見方の一部として同化してしまっている。

●例:ヒューストンを訪れたトダ族の女性
地元で教育を受けた看護師であり、同時に文化の仲介者でもある彼女は、ヒューストンで人類学者が過去何十年してきたようなトダ族についての話をする。また、彼女はBBCによるトダ族に関するドキュメンタリーの中で、番組制作者の最も重要なインフォーマントとして大々的に取り上げられていた。その番組を見た彼女自身のコメントは、トダ文化のより細かい部分に関することではなく、自分の部族が彼女自身によって、BBCによって、人類学者によって多元的表象されてしまうアイロニーについてであった。

 世界経済やコミュニケーションの浸透、アイデンティティや文化の権威性の問題は、近代世界の見ならず世界中のほとんどの地域で見られるようになった。そのため多くの民族の間で民族誌の逆流が起こりつつある。彼らは人類学者の用語を理解できるだけでなく、自分とは異なる選択肢や知識の狭間で自分自身を相対化することもできる。とはいえそれは伝統的な人類学が用いてきた用語なりが対象となる人々よって根本的に覆されたわけでも取り込まれたわけでもなく、むしろ伝統的課題が一層複雑になり、それに伴う新たな感受性や戦略が必要となっているのである。(~p.82)

 世界経済の伝播やコミュニケーションの加速が進む中でそれでも人類学は文化的差異に着目してきたが、その受容は差異の同質化(進化論的統合や、マルクス主義的葛藤形式への統合など)を伴うこともしばしばだった。このような潮流の中で、人類学者は本質的でもない些事に現を抜かすロマン主義的だと片付けられるようになった。そのいっぽうで報道機関や他の分析者によって、複雑な事象がわれわれに理解可能な政治的・経済的用語におさまりのいいように翻訳されてしまっている。理解できないことは、よくわからない神秘的な残滓たる文化という範疇に押し込められてしまう。
 むしろ民族誌は、全く異質な他者がもはや存在せず、一つの文化というものが想定できないとき、いっそう正確に歴史的文脈を把握する必要があるし、地域における世界規模の政治的・経済的システムの内在的な作動を記録しなければならない。こうしたシステムは地域的な文化に外側から刺激を与えているとは説明できない。むしろそれは完全にその内側で把握され、浸透し、世界内部で象徴形式を与えられ、共有された意味をかたちづくっている。(~p.86)

実験的に民族誌を書くことの精神と見通し

 実験的民族誌がなんらかの拡張性を持っているだろうという期待は、人類学者だけではなく読み手も共有しているものである。しばしばこの拡張性は、マリノフスキーやE=Pのような過去の民族誌の読み直しからも引き出されており、その意味で実験的試みは過去との断絶によっては特徴づけられない。
 実験的民族誌はある種の反=ジャンルとして特徴づけることができる。あるジャンルの正統基準の拒否であり、他の人々が従うべきモデルや「学派」の基礎を提示たりはしない。実験的試みがひとつのサブジャンルとみなされるようになってしまうと、その重要性は失われてしまう。
 例えば、FWに対する内省はある程度まで有効だが、それが際限なく繰り返されるとそれはサブジャンルを形成してしまい、書き手の反省のための自己省察手段としてばかりでなく民族誌を書く目的であるとまでみなされるようなってしまう。(~p.92)

 民族誌記述の実験的試みには二つの区別できる流れがある。一つは、民族誌において文化的差異がいかに表象されるべきかという問いを根本的に問い詰める流れである。この種の試みにある本質的な緊張とは、社会科学的研究で表象化された経験よりも、実際の経験のほうが常により複雑だったということだ。この流れに属する実験的試みがなすべきは、これまでよりもさらに全般的で、さらに豊かな刺激を喚起するような異文化経験の記述を書くために、現在ある民族誌のジャンルの境界を拡大していくことである。
 もう一つの流れは、民族誌の対象がいかに広範にわたる歴史政治経済過程に巻き込まれているかを記述するためのより有効な方法を見つけ出すことである。こうした民族誌は、解釈学的人類学によって進展した文化的意味の研究と、歴史的な諸事件の流れや世界規模の政治経済的システムの長期的作用のなかに対象を位置づけるという関心を一致させなければならないという近年の要請に答えようとしている。

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