ROKKAKUな日々

四国のとある生活介護事業所「ROKKAKUぬま(仮)」であった日々のことを記録していま…

ROKKAKUな日々

四国のとある生活介護事業所「ROKKAKUぬま(仮)」であった日々のことを記録しています。 (ここで書かれていることは現実にあったことによく似た虚構です。)

最近の記事

車のロゴから障がいのイメージを考える

施設のロゴが描いてある車がよく走っている。 運転している人からすると、何者かを表示して走るのは自分の運転を見られているようで落ち着かないと思う。 安全運転の効果もあるのかもしれないけど、やはり広告の意味合いが強いのだろう。 たくさん街で見かければ、施設の認知度が上がり、選挙のように選んでもらえたりするのかもしれない。 先日お話した福祉関係の方が、デカデカとロゴが入った車でご自宅を訪問するのは、「施設の利用対象者がいますよ」とご近所に知らせてるようで気が引けると言っていた

    • 障がいと成熟

      最近、利用者さんのご家族から、否定的な言葉がけをされたことが発端となり、他害行為を行ってしまうというお話を聞くことが何度かあった。 それを聞いて、自分たちのかかわり方を振り返ると、否定的な言葉をかけることがあまりないことに気が付いた。 これはわたしたちの施設のケアが素晴らしいというワケではなく、何を目指しているのかの違いによるものなのかと思う。 社会の規範に合わせられるようになることよりも、そのひとの特性を目いっぱい発揮してもらい、社会につなげられるような回路を調整するのが

      • 今日も沿えなかった

        ケアの仕事をするうえで、よりあいの村瀬孝生さんは遠くに見える灯台のように、いつもそれとなく自分の居場所を確認するためのベンチマークにしている方のひとり。 たまたまSNSでこの動画を見て、その日の自身のケアを振り返ってみた。 午後のあるできごと。 買い物に行きたいというRさんの要望に応え、2人で車に乗り込んだ。 昨日産直で買ってきた梅の実のヘタを取ったので、梅シロップを作るべく、氷砂糖を買いに行きたいと思っていたのだった。 すると、玄関先でHさんが出かけたそうに外を見てい

        • 他者の痛みを感じ、傷つくこと

          先日、松山大学で水俣病の支援団体・想思社の永野三智さんの講演会に行ってきた。 この講演は当事者ではない(と自身が自覚的である)他者がどのように問題とかかわるかというとても普遍的なもので、ケアの現場においても示唆に富むものだと思ったので、少し長くなるけれども感想を記しておきたい。 永野さんの著書「みな、やっとの思いで坂をのぼる」はとても強く印象に残る一冊だった。 水俣病未認定患者の方の相談対応の記録で、本当に多くの患者さんとのやり取りが記載されているのに、それぞれの患者さんの

        車のロゴから障がいのイメージを考える

          2つのケーキと労い

          利用者さんたちと喫茶店にお茶をしに行った時のこと。 目的にしていたデザートのケーキが残り2つ。 利用者さんは3人・・・。 さまざまな解決策があるなかで、とっさの判断でとった行動は「意思確認」。 明確な意思表示をした2人がケーキにありつくこととなった。 ただ、ケーキにありつけなかった利用者さんは意思表示をすることが難しい方だったため、このアンフェアさはその後澱のようにしばらく自分のなかで尾を引くこととなった。 (もちろん、この利用者さんには好物のフライドポテトにクリームソーダ

          2つのケーキと労い

          同性介護の解像度

          先日、生活介護で働き始めたばかりの友人と近況を話し合う機会があった。 友人は、同性介護が生物学的な性別のみに偏重していることについての違和感について語っていた。 自分自身がLGBTQなどのセクシャルな問題について疎いこともあり、恥ずかしながら、目から鱗だった。 聞いてみると、2つの問題点があるようだ。 一つ目が利用者さんの性自認をどこまで正確に把握できるかという点。 これは、言語でのコミュニケーションが困難であったり、本人の生活環境での恋愛のバリエーションが限られているこ

          同性介護の解像度

          ご支援は計画的に

          計画を立てて、実行し、見直して、ブラッシュアップするPDCAサイクルが苦手だ。 苦手な理由は、PDCAという考え方が基本的に右肩上がりの直線的な成長を前提にしているからで、そのラインに乗れていないと焦燥感によって苦しくなるからだと思う。 障がい者支援の現場では、個別支援計画というものが制度としてあり、この計画によって事実上のPDCAのサイクルを回すようにほぼ義務付けられている。 ほぼというのは、計画を作らない場合には報酬が50%減額され、収支が成り立たないような制度設計にな

          ご支援は計画的に

          ノイズキャンセリングの効能と・・・

          騒がしいのが苦手なUさん。 精神的に不安定になると手が出てしまうことがあり、過去に一度だけ、家電量販店に一緒に行ったときに頭をたたかれたことがある。 そんなUさんと少しドキドキしながら、ドラッグストアに買い物に行った。 音を気にしながらお店に入ってみると、店内の放送と商品の広告、精算機の人工音が一度に飛び込んできた。 普段の買い物では必要な音だけを取捨選択しているんだろう。 これだけうるさいことに気づいていなかった。 手は出なかったものの、どんどん険しくなるUさんの表情に

          ノイズキャンセリングの効能と・・・

          滑り台に自分がいた

          うちを利用し始めてから2か月のYさん。 話しかけても、こちらの話のオウム返しが多く、挨拶をしても帰ってこないことが多い。 Yさんと一緒にいると、応答というのは自分が存在していることを感じられる行為なんだということを強く感じる。 ほとんど目を合わせてくれないYさんといると、自分がそこにいるのかわからなくなってくる。 こスタッフと積極的にコミュニケーションを取る利用者さんが多いなかで、Yさんとは心が通じ合えていないような手ごたえのなさを感じていた。 そんなある日、公園に行く

          滑り台に自分がいた

          ケアの技能について

          ぼくよりもずっとケアの経験が長い先輩のGさん。 これまでに多くの人に接してきていて、障がいの有無にかかわらず、心理的な安全性を作るのがうまいなあという印象をもっている。 送迎の時になかなか車に乗ってくれないSさんの迎えに初挑戦。 Sさんは迎えに来る人や車の車種などに強い影響を受けるので、Sさんとの関係が良好なGさんは「行けそうな気がする」とやる気満々。 ところが蓋を開けてみると何のことはない。 いつも通りSさんは送迎車には乗らず、ほかのスタッフも自宅までヘルプで駆け付けた

          ケアの技能について

          ツルツルとギザギザ

          この1年、知的障害と自閉のある人たちと接してきて、「能力」というもののとらえきれなさを感じている。 場所や周囲にいる人との関係性など状況によってできるときとできないときがある。 とても環境依存的。 しかも、同じような状況を整えても日によって変わる。 月の満ち欠けや気圧との関係を統計的に調べてみたいねなんて話してしまうほど。 最近、ちくまプリマー新書、鈴木宏昭さんの「私たちはどう学んでいるのか」を読んでいるのだが、その中でとある問題を解くときに複数の認知リソース(考え方)が

          ツルツルとギザギザ

          具体的な状況に対して(手の倫理を読んで2)

          手の倫理を読んでのつづき。 最も好きな章は不埒な手という章だ。 入浴介助者が介助と性行為を関連付けて考えてしまうエピソード。 それを不純なのでやめたまえと言うのは道徳的だが、同じ身体を使ってやっていることなのだと。 職場のスタッフが受けた研修で、介護者は排泄物を汚いと思ってはいけないと教えられたという話を聞いてとても驚いた。 衛生上、気を付けて扱うべきだという観点もさることながら、自分が汚いと感じてしまうところからがケアのスタートなんじゃないかなと思う。 著者の伊藤さん

          具体的な状況に対して(手の倫理を読んで2)

          環境と能力と

          以前に、Oさんの検査に同行したときのこと。 受給者証の区分認定のための検査で、初対面の心理士の方から質問を受けたけれども、 そもそもOさんには問いにレスポンスするという前提がないため、かみ合わない時間となった。 傍らで、問い方や使用するアイテムが変われば、「できる」側になる問いもあるなあと思っていた。 その検査で、今更ながらにOさんは環境の影響を受けやすく、その調整が難しいことが障がいなんだなあと気づいたのである。 その気づきを得て以降、Oさんが「できる」ようになる環境を先

          ふれることの真実味(手の倫理を読んで1)

          伊藤亜紗さん著 手の倫理(講談社新書メチエ)という本を読んでいる。 これまで事務の仕事をしてきた私にとって、ケアの仕事に就いてから、家族以外の他者に「ふれる」という行為にあまりなじみがなく、戸惑うことが多い。 「ふれる」という物理的な質感を持った行為について、感覚が先行して理解が追い付いていない自分にとって、この本はその感覚を整理する助けになった。 言語でのコミュニケーションが難しいYさんとは触れる機会がとても多い。それは、Yさんの日常生活動作でケアが必要となる場面が多い

          ふれることの真実味(手の倫理を読んで1)

          どれだけ代弁できるか、なのか

          送迎の時になかなか送迎車に乗ってくれないEさん。 ある日、乗らないどころか家に戻ったまま出てこなくなってしまった。 そんなことは初めてで、前日にあったあれこれを思い出してみたり、大慌て。 膠着状態になってしまい、状況を打開するにはEさんが好きな車か人が目の前に現れれば何か変わるかもと一縷の望みを託して、スタッフを呼ぶ。 到着したスタッフが促すと驚くほどあっさりと車に乗ってしまった。 結局、Eさんが家から出てこなくなってしまった理由は迷宮入りとなった。 意思というのが本当

          どれだけ代弁できるか、なのか

          いるのはつらいのかい?

          施設に見学に来てくれる方に、利用者さんがやることは特に決めていないことを話すと、驚きとたまに戸惑いの反応をされることがある。 戸惑いには、自分たちがどのようなサービスを提供するのかが見えにくいという点があるのかもしれない。 せっかく見学に来てくれている方に申し訳ない気持ちにもなる。 例えば、今日は施設の説明をしている隣のテーブルで、Hさんがひたすら付箋に数字を書いて壁に貼っていた。 この行為について言葉で説明するのはなかなか難しいが、見てもらえたので伝わったようでよかった。

          いるのはつらいのかい?