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掌編小説 | 鏡

思い出してみようか。あなたが私に宿った時のことを。
それまで、何度も命を授かったのに自分の弱さゆえ守れなかった。
仕事だから、休めないから、立ち止まれないから。
全部、自分の弱さゆえ。
四度目の妊娠であなたを確認した次の日、私は職場の上司に言った。

「妊娠したので今日で辞めさせてください」

非常識と思われても、誰に負担がのしかかってもいい。知らない土地で、やっとできた仲間を裏切っても。今度ばかりは守ろうと思った。

その命が育って10年。
絶賛反抗期。バンザイ。

私はあなたに負けないよ。
あの時、本気になったのだから。
あなたを守るため、私は本気になったのだから。

日記


息子が二十歳になった。
10年前の自分の日記を読み返して、こんな時期があったもんだと振り返る。

長い反抗期の中にいたようで、それは間違いなく彼の特性であった。
生まれた時から気難しく、笑いもせずに大人の目をじっと見つめる息子に、大人たちはたじろいだ。見透かすようなその澄んだ瞳は、覚悟のない者を動揺させる。

なぜこの子は笑わないのか。
なぜこの子は笑えないのだろうか。

「子は親の鏡」
どこかの誰かの真っ当であり無責任な発言は、私を深く傷つけた。
こんなに一生懸命、奴隷のように尽くしても愛想良く笑わない息子と二人で過ごす時間。窮屈でも、世間にはよくやっているように見せている自分がいる。

広い心で
誉めて
愛して
認めて
見つめて

母親というのは、ただ生きていて欲しいと願う小さな命に対して、どれだけの配慮と責任を感じて過ごせば認めて貰えるものなのだろう。
当時の私は、息子への誠実さを示すことに只々必死でもがいていた。
私にとって子育ては、自分を正当化することだった。

自分がこうやって育てられたから
私にはこうすることが必要だから
きっと将来、息子のためになるから

正当化すればするほど、息子の気持ちはどんどん離れていくようだったが、それも本人に確かめた訳でも無く、ただ自分が抱える後ろめたさからくる思い込みなのかもしれない。

息子は一人暮らしをすると決めて出ていく日の朝、何気なく私に言った。
「ありがとね」

ありがとうなんて、息子が話せるようになってからというもの、狂ったように私が彼に仕込んできた言葉だ。

「どういたしまして~」
ふざけて言いながら、なにか喉の奥が塞がる感覚を覚える。

この子はついに私の元を離れていく。そしてもう二度と私には会いにこないかもしれない。
そんなことを思ったら悔しいくらいに泣けてきてしまった。

「泣くとか意味わかんね」
息子が笑っていた。私のくだらない涙を見て、それはそれは自然に笑うのだ。

ああ、一区切りがついた。そんな感覚で体の力が抜けていくようだった。
あとは彼の好きなように生きていくだろう。その中に時たま現れる、お節介な登場人物になれたら、こんなに嬉しいことはない。

「ねぇ、意味わかんないけどハグしていい?」
私は拒絶される前に、息子の背中に体を預けてみた。
とうに繋がりを失った私と息子の体なのに、なにかまだ彼が一部であるかのように感じたのは、得意の思い込みだろう。

「いやいやいやいや」
早口で言いながら、私から優しく体を離そうとする息子に感心した。

「じゃ、あとは好きにやんな」
手がかかった分、こんな風に突き放すような台詞を吐けるようになったことが誇らしい。

「お母さんもね」
息子は私を見ずに言った。
息子から自由を許された日、私は子供のように泣いた。



[完]


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