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屋久杉の『命』のお話

自然がもたらす生命のサイクル

「どうして、この辺りは他の辺りと違って、とても明るいのでしょうか。
屋久島には、年に2~3回、台風が直撃します。台風で老いた屋久杉は根元から折れて倒れました。その大きな枝を大きく拡げていた場所には、太陽の光がたっぷりと地表まで射し込んでいます。深い森の中にあり日光が届かずあまり育たなかったような植物たちが、こうして光を求めてニョキニョキと芽吹いて生長しています。この辺りが他のうっそうとして薄暗くなっているところよりも明るくなっているのは、かつて大木があった場所だからなのです。
老いた木はやがて倒れ、その跡には新しい生命が芽吹いていきます。そう。命のサイクルです。」
《現地ガイドさんのお話より》

かつて大木だったところには
太陽の光がたっぷりと入り
若い生命がすくすくと生長している
(上の説明を受けた時の場所とは違う場所です)




命をつなぐ屋久杉

屋久杉には、一代杉、二代杉と呼ばれているものがあります。一代目の杉に次世代の杉が生えて生長している、このような屋久杉の世代交代の姿を見ることができます。

・切株更新…伐採された屋久杉の切り株の上に種子が落ち、若い杉が芽生えて生長する
・倒木更新…強風などで倒れた杉の幹から新しい命が芽生えて生長する

があります。
栄養分をもらって生長するのではなくて、屋久杉に絡み付いて生長しているのです。『着生』といいます。(前者は『寄生』です。)
若い杉だけではなく、ヤマグルマ(トリモチノキ)やヤクシマシャクナゲ、ツガなど様々な種類の樹木が屋久杉に絡み付いて着生しているのがたくさん見られます。
屋久杉と様々な種が【共生している】のです。

『切株更新』

大きくて古めかしい老木とその上に若い杉が芽生えて生長している姿を至るところで見ることができます。一つとして同じものはありません。


屋久杉の世代交代の様子が実によく分かるものがあります。下の写真です。

『三代杉』

一代杉…1500年前に倒れた一代目の杉
二代杉…切り株状態の二代目の杉(倒木更新)
三代杉…二代目の杉の切り株から生えている、細く若々しいの三代目の杉(切株更新)

二代杉の根元を見ると大きな穴がいくつかあります。その穴は、倒れた一代杉の根っこだったものでした。根っこが朽ち果てて、このようにして大きな穴となって残っているのです。一代杉はいかに大きな杉だったのでしょう。二代杉が一代杉を取り囲むように生長していた様子が分かります。

屋久杉は、次の生命へと命をつないで、世代交代を繰り返しています。このようにして屋久島の森は維持されているのです。

屋久杉はどのようにして命を終えて、どのようにして次の世代につなげているのだろうかと屋久杉たちを見て想像することができます。
(ガイドさんレベルとなると、何年前に倒れたものなのか?切り株に芽生えた杉の若芽は何年目なのか?と分かるようです。すごい。)
屋久杉の命の歴史を想像して楽しむ。
ガイドさんに教えてもらわなかったら、漠然と、ただの森としか見ていなかったでしょう。

いのちあふれる『屋久島の森』




屋久杉と人の歴史

屋久杉の最初の伐採は、室町~安土桃山時代。藩政によるものが始まりだったといわれています。寺社など特別な建築のために、薩摩藩島津氏によって屋久杉が伐採されるようになりました。最古の記録によると、豊臣秀吉が京都方広寺の建築材を調達するために全国の諸藩に命じたようです。薩摩藩島津氏は重臣らに屋久島へ赴いて調査をさせたようです。京都方広寺は1595年創建で、約430年前には屋久杉材が利用されていたことになります。

屋久島の人たちは、屋久杉を伐採することに抵抗がありました。神々の領域のもの。屋久島の奥山にある屋久杉を伐採するようなことはしませんでした。屋久島の自然とともに生きる屋久島の人たちは、昔から屋久杉を大事にしていました。

『ウィルソン株』
豊臣秀吉の命によって伐採されたらしい
ひときわ大きな屋久杉の切り株


やがて、江戸時代初期。
屋久杉の利用を狙い藩の支配を強めた島津氏は、屋久杉材を年貢などとして定め藩の財政としました。幕末期までに5~7割ものの屋久杉が伐採されたと推定されているようです。
もちろん当時は機械などなく、すべて人の手によって伐採は行われました。斧などで切り倒して伐採した屋久杉をそのまま運ぶことはできません。丸太にしても大きすぎてとても運べません。平木という、規格(縦×横の大きさが決められている)サイズの短冊状に切り分けて、それらを人が背負って山から運び出されていきました。板葺きの屋根材などに使われていったのでしょう。

屋久杉が伐採された跡には、小杉と呼ばれている若い杉が誕生していきます。誕生して数百年、その姿が現在へと受け継がれています。

※『屋久島地杉』という植林した杉もあります。DNAは屋久杉と一緒なのですが、屋久杉とは区別されていて、50~60年で伐採されて利用されているようです。

はしごを使って高い位置で切り倒していたようです

明治~昭和時代。そして、高度経済成長期へ。
明治時代に入ると国有化の動きがあり、大正末期には国有林となり、国による事業化が本格化されました。そのような中で、樹齢1000年を超えるような屋久杉(生立木)の伐採は禁止されていました。しかし、戦時中に軍用材としての利用のため臨時的に伐採禁止の解除がありました。戦後になっても縮小はされましたが伐採は続きました。
1954年から高度経済成長期に入ると、慢性的に不足している木材の供給のため、屋久杉の生立木の伐採を正式に許可されるようになります。
チェーンソーなどを使って、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に伐採し始めました。屋久杉、針葉樹、広葉樹などあらゆる木が伐採されました。

時代は平成になり、1993年。
屋久島が『世界自然遺産』に登録されます。

工芸品などで使われている屋久杉は、土埋木が使われています。土に埋められていた木だと私は想像したのですが、屋久杉の場合は違うようです。江戸時代以降に伐採されて搬出されずに土の上に残されていたものです。なぜ搬出されずに残されたのでしょうか。杢目がまっすぐではなくて、加工しづらいからでした。後世、土埋木をヘリコプターでダンプカーが運べるところまで山の中から運び出されます。

『土埋木(どまいぼく)』

2019年3月の競りを最後に、屋久杉が市場に出回らなくなりました。2001年、自生する屋久杉の伐採が全面禁止されました。(世界自然遺産に登録された時は伐採の制限にとどまるのみだったようでした。)土埋木を運び出されることも禁止され、屋久杉を山から搬出されることが一切なくなりました。

屋久杉や屋久島の森と資源は守られ、ゆっくりと再生していくことになるでしょう。




屋久島の自然と屋久杉

ここで、屋久杉とはなんでしょうか。
屋久島では樹齢1000年以上の高齢杉を『屋久杉』と呼び、樹齢1000年未満~数百年の若い杉を『小杉』と呼んでいるようです。小杉とはいえ、樹齢数百年以上なのでとても立派です。それを優に超えて1000年以上を生きる『屋久杉』は、やはり格が違います。刻の重みを感じられます。

屋久杉の一つ『七本杉』がお出迎え

江戸時代以降に切り倒されずに屋久杉が残っているということは、根や幹が曲がっていて材木にするには適さない、あるいは、切り倒すのが大変そうな屋久杉だったのでしょう。ゴツゴツと節々していて野性味であふれています。自然そのものを表しているようです。

縄文杉。それは、樹齢1000年以上の屋久杉の中で、最大級のものが『縄文杉』といわれています。樹齢は、推定で2170~7200年。中心部は空洞になっていて測定不能です。科学的計測値によると最低で2170年ではないかとされています。

職場へのお土産『屋久杉せんべい』の箱の裏に
載っていた縄文杉の絵葉書


屋久島は、海底のマグマだまりが冷えて固まった花崗岩が盛り上がってできた島です。
屋久島のほぼ全域が山地で、標高1000~1900メートル級の山々が連なっています。最高峰は宮之浦岳で1936メートルです。
栄養が乏しい花崗岩の地質。年間を通してよく雨が降る温暖で湿潤な気候。森は深く日光が地表まで届きにくいです。
こうした厳しい環境で育つため、屋久杉は生長がゆっくりで、年輪がとても密に細かく詰まっています。とても長生きで、心材(木の中心に近い部分)の色が濃く、香りが強いです。また、樹脂が多く、普通の杉の6倍以上含まれていて、腐りにくく、虫にも強いです。
こういった屋久杉の性質で、江戸時代以降に切り取られた切り株が朽ち果てることなく今も残されているのです。

命を終えた屋久杉
屋久杉はとても丈夫で腐りにくい性質があります




屋久島と台風10号

縄文杉を見たかったのですが、残念ながら希望が叶わず見ることができませんでした。もし見に行くことになるとしたら、早朝4時30分出発の往復10時間の【縄文杉】トレッキングコースになるようです。

今回、私が参加したのは【白谷雲水峡】コースで、苔むす森~太鼓岩までの往復7時間のトレッキングでした。白谷雲水峡は、ジブリ映画『もののけ姫』の舞台となったといわれているようです。今にも動き出しそうな森の主たち。ワクワク。

※トレッキングと述べていますが、屋久島では、山登りです。万全の体調と十分な装備で臨みましょう。ガイドさんをつけてもらうのがよいと思いました。

『苔むす森』

今年、令和6年8月。台風10号が屋久島を直撃しました。
白谷雲水峡地区内にある屋久杉の一つ、樹齢3000年の『弥生杉』が、この台風で根元から折れて倒れてしまいました。
縄文杉へ行くコースでは土砂崩れが起こり封鎖されました。白谷雲水峡コース内でも、さつき吊り橋が崩壊し、迂回して急峻で細い道を登りました。プラス1時間の迂回コースでした。




屋久島の森と苔

雨がよく降り、温暖で湿潤な屋久島の森。
日本に生育している苔の種類は約1600種類で、その中で約600~700種類の苔が屋久島で生育しているようです。屋久島はコケの三大聖地の一つだそうです。

(上)コスギコケと(下)ヒノキコケ

ヒノキコケをそっと撫でてみるとネコの毛みたいと言ったら、別名『イタチノシッポ』といわれているのですよと教えてくれました。ずっと撫でていたくなる…もふもふ。


屋久島の超天然コケリウム

リアルで大きなコケリウム。大きな岩にびっしりと多種多様な苔が共生しています。木がガチで生えています。


ガイドさんに苔の種類や生態について教えてもらわなかったら、苔のことをふーんと通りすぎてよく知ろうとしなかったでしょう。苔の魅力にとりつかれました。苔テラリウム、やってみようかな。




ほぼ屋久杉のお話でしたが、屋久島の森には杉だけはでなく、苔、ツガやモミなど針葉樹があり、ヤマグルマ(トリモチノキ)など広葉樹も生育しています。ヤマザクラの木やサザンカの花びら、ツツジなどを見ることができました。
これもガイドさんに教えてもらわなかったら分からなかったなぁ。
(余談)モミの木は、丈夫で腐りやすい。昔の人は、土葬するのに棺桶としてモミの木を利用していたようです。クイズを出された時、丈夫なのに腐りやすい…の?一体何に使っていたの?とハテナになって答えが思い浮かびませんでした。モミの木はクリスマスツリーが定番🎄目的に応じて樹木を使い分けていたのですね。


サキシマフヨウ
ハイビスカスみたいですが芙蓉(ふよう)
秋に咲くようです🌺



※現地ガイドさんのお話やトレッキング前日に『屋久杉自然館』で予習を兼ねて観てきた内容を元にまとめました。途中、駆け足になってるのはご愛敬で。

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20241114

(スマホの画面の右側が白く発光しており、画面の表示がおかしい。いつ壊れるかとドキドキしながら打っています。)

やっと書き終えました。長かった。火曜日にこのnote記事を書き始めてから数日かかりました。ガイドさんのお話を忘れないうちにと、このようにしてまとめていったら屋久杉の壮大で長~いお話になりました。

2024年11月3~6日。3泊4日の屋久島の旅。
これで、おしまい。

屋久島に行く前。台風が発生し日本列島へ接近しており、2週間~10日前から天気予報とにらめっこの日々でした。しかし、私は不思議と心配はしていませんでした。出発の朝、前日の福岡→屋久島へ飛ぶ便が欠航していたことを知った時は本当にヒヤヒヤしました。屋久島に無事に到着した時は本当にホッとしました。
滞在中は、晴れていて雨に降られるようなことはありませんでした。3日目、白谷雲水峡に行ったとき。本当にお天気が良かったようで、深い森の中へキラキラと差し込む光が神秘的で本当に綺麗でした。太鼓岩に登った時もすっきりと晴れていて、向こうの山が見えるほど晴れているのはなかなかないですよとガイドさんが言っていました。
夜には、息をのむような満天の星空を見ました。漆黒の海に囲まれた島なので灯りは極めて少なく、漆黒の夜空に数え切れないほどのたくさんの星たちがきらめいていました。ただ視力が悪いのが惜しまれます。眼鏡をかけていても少し霞んでいてよくは見えません。視力低下とは無縁で肉眼でよく見えていた頃の記憶の星空と比べて、ちょっぴり切なくなったのでした。それだけでなく、スマホ画面を見てから星空を見ようとすると、ピントがなかなか合わなくて時間がかかります。スマホの見すぎはよくないのね…と身に染みました。ど近くで見るものの極み=スマホ。
最終日、地元では寒冷前線の接近で強風で吹き荒れているようなお天気だったのですが、欠航することなく無事に帰ることができました。

実にとても充実した屋久島滞在でした。ガイドさんについてもらわなかったら、屋久島のことをより知り楽しむことはできなかったでしょう。行動したのは私なのですが、私一人だけの力とはとても思えません。人とのつながり、プラスアルファの何らかのお導きなのでしょうか。満ち足りた思いと感謝の気持ちでいっぱいになりました。

一昨日、火曜日。産土神社へお礼詣りに行きました。参道では、晩秋の、ハラハラと静かに落葉している様子がスローモーションのように映って、本当に美しかったです。

ただいま、帰ってきました。
ありがとう。
また、よろしくね。

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森の精霊がひょっこりと出てきそうです



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