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『統合失調症、躁鬱病が僕の生きる武器に変わった』障害者ライフの始まりは大学生

これから様々な活動する前のただの障害者だった頃の闘病記を書いていきます。

僕の闘病記は大学生から始まります。サークルを3つ掛け持ち、アルバイトはドラッグストアで週4日働くなど月曜日から日曜日まで毎日夜21時以降に家に帰る日が増えました。今思うと恐ろしい体力ですよね、若さって怖い。

元々小学生の時から冬になると元気の度合いが下がってしまう僕は秋や冬に元気が無くなるのは割りと当たり前な感覚でした。

しかし大学3年秋になると友達とご飯を食べるのが億劫になり、非常階段で隠れて一人で食べることが増えていきました。ボッチ飯しておりました。

アルバイト中も元気が底を着くとバックヤードに行きダンボールを広げ休み、栄誉ドリンクを飲み働く日もありました。この頃から躁鬱病は持病としてあったんだなと思います。

就職活動が始まった大学4年生の春に僕はハイテンションでした。

天津留学した時、中国語のスピーチコンテストで優勝したり中国蘇州市でフィールドワークしたので漠然と中国で働きたいという気持ちがありましたし、中国で働けるだろうなと軽い気持ちを持っていました。

その時は躁状態になっていると気づきませんでした。

しかし就職活動すると履歴書を作ったり、郵送するのが苦手ということに悩まされました。

タスクが重なると面倒くさい作業を先延ばしにしたりして履歴書の提出期限が過ぎることもありました。また履歴書を作れてもコンビニのコピー機に原本を忘れ面接に遅れる凡ミスが起きました。

これはおかしい、あまりに事務的なミスが多いので発達障害じゃないかと疑い始めました。

面接以外で不採用が増え、メンタルが崩れアスペルガー症候群やADHDなんじゃないかと確信するようになります。

発達障害を調べたいと思い、地元のメンタルクリニックに行くもチェックシートに記入するだけで診断はされませんでした。その時も躁でテンションが割りと高かったのでうつ病の薬を処方されても拒否してました。

気分が落ち込みが強くなり情緒不安定だったのでメンタルクリニックで処方された頓服の精神安定剤を飲み過ごしていました。

就活は一時休止していました。その時は鬱が酷くなり生きてるのか死んでるのか分からない状態になりました。

忘れもしない9月4日。姉の誕生日に母からケーキを買うようにケーキ代を預かりました。その日は自殺衝動がとても強く、電車を見た瞬間、最悪の展開を想像してしまいました。

「自殺しよう」

そう思った時、姉の誕生日に死んだら家族に一生恨まると思い、予約してないのにメンタルクリニックに行き「自殺しそうなんです!!助けて下さい」と言い、エビリファイという液体状の頓服を飲まされ安静になりました。

しばらくエビリファイを飲んでいましたが気分がどんどん落ち込んでいきました。またメンタルクリニックでは5分診察で話を聞いてくれない医師への不信感もあり、少し離れた精神科の病院に通院を変えました。

今も通っている病院に通院し始めて、自分に合う主治医と出会います。

待ち時間は長いけど20分ぐらい話を聞いてくれるので薬の服薬の変更や副作用など丁寧に話してくれます。薬の調整も上手くいき鬱も軽くなりました。躁鬱病も診断されて自分の持病を知ることができました。

また通院している病院ではIQ検査でアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)かを調べれました。言語IQと動作IQが20以上差があったのでアスペルガー症候群の診断が正式に出ました。

その時はショックよりも安堵感が強かったです。

就職活動は卒業が決まってから始めるとして、卒業論文に取り組みました。ゼミの先生に協力して頂いて卒業論文を提出でき、無事卒業することができました。

病院の転院を勧めてくださった学生相談室の先生や臨床心理士さんやゼミの先生には感謝しかありません。

精神科に通って薬も毎日飲んでいましたが、障害者としての認識は少なく、ちょっと頭の処理能力に問題があるなーぐらいの感覚でした。

卒業後は障害者枠での就職活動になります。
次は障害者の就職活動の実態を書いていきます。



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