世界中の虚しさ

世界のほとんどの人は虚しいだろう。
お金持ち貧乏人、あらゆる人種、都会の人地方の人、色んな人間が地球上には居る。
みんな寂しくて虚しい日々の中で生活している。
朝起きて、掃除して、顔を洗って、ご飯を食べて、スマホのニュースを見て一瞬で忘れる情報に時間を忘れさせてもらい、うっとおしい気温の中サブスクの誰かもわからん音楽を流し聴きしながら職場に向かう。
煩わしい仕事の続きを溜息混じりに始業と共にこなし始める。報連相ができてなくてあれどーなってんのこれやってないよーっと少し険悪になりつつもなんとか我慢して他者と仕事をする日々だ。
夕方になって仕事が終われば足早に電車にまたは車に乗り家に帰って酒とツマミとまぁまぁおもしろいアニメやドラマや動画を見て乾いた笑いを吐きながらまた朝と同じため息をつく。
特別な環境や特性やエネルギーを持った人以外はまぁだいたいこんなもんだろう。
これが現代の「生きるの大体」である。(愛し合ってる恋人?家族?そんなのは特別だ!)

生きることはとても寂しくて虚しい。
これを克服できるものかどうかはわからない。
仏教では空というものがこの世の真理であり、それはつまり一切は錯覚であり実体が無く、生きることは虚しいものと断言しているということだ。
だから己もその空である事を悟り、心もまた空にすれば悩まなくて済むと。。

そんなこと無理だ。絶対に無理だ。

以前書いた記事に、強い虚しさの正体は生きることに楽しさや喜びを求める心だと書いた。虚しさは実体のない偶像から伸びる影なのだ。実際に存在してるのは影だけだったというオチなのだ。
しかしそれが正しくても
僕は人生に楽しさや喜びを求めてしまうだろう。
虚しい心には耐えられない。
この世に産まれてきて、生老病死の中で、
「ここには何も有りません御愁傷様です。死ぬまで静かに待っててね」なんて、ふざけるなと。
錯覚でもなんでも僕は人生の虚しさを克服したい。

世界中の人々が今まさに虚しい寂しいと思いながら日々生きてると思えば自分も同じ虚しい世界に産み落とされた一人であり、人類は大きな虚無世界の共有体である。(虚無故に錯覚する方法を求め錯覚することを奪い合うのだ)
そして僕は今インターネットという世界に発信できる情報機器で今感じてる虚しさ、寂しさを発信してる。
これが具体的にどう影響を与えるかはわからない。

しかし今は情報と混乱の時代だ。現代を生きる者として、大きな美術館で高い絵画を飾るよりも、奥深いサスペンススリラーの映画を作るよりも、もしかしたらふと思ったこのなんともいえない空っぽな感覚を発信する方が何者でもない生の声故に意味はあるのかもしれない。
それが混迷極めたリアルが無い現代社会に生きる者としての務めなのか、やるべきことなのかはわからない。
ただ僕は生きてて虚しいと発信し続けることしかできない。同じ境遇の人々が、この人も同じなんだと思えるように。。