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「マリー・アントワネットとフェルセン、真実の恋」を読んで②

昨日の記事の続きを書きたいと思います。
あわせてYouTubeもご覧いただければ嬉しいです。

ヴァレンヌ逃亡に失敗した後、なんとフェルゼンは、指名手配中の身で、もし捕まれば命がないという状況で、再びフランスへ戻ります。
1792年2月13日にチュイルリー宮を訪れ(このチュイルリー宮に入るのにも命がけ)、ルイ16世に再び逃亡計画を提案しますが、国王は拒否。
この日、チュイルリー宮のマリー・アントワネットの部屋で、フェルゼンは一晩過ごしたと言われています。(この場面は「ベルばら」にも描かれていますね)

けれども、これが今世で2人が会う最後の日となってしまいます。

この後、国王一家は、タンプル塔へ幽閉され、ルイ16世処刑後、マリー・アントワネットはコンシェルジュリーに移されます。

コンシェルジュリーに移されたということは、ギロチンにかけられるのを待つだけになったということです。

王妃が処刑された時のフェルゼンの苦悩が痛いほどわかる妹あてに書いた日記を読むと、胸が痛いです。

フェルゼンは、ヴァレンヌ逃亡の日、すなわち6月20日をずっと悔やんでいた(国王一家と最後まで行動を共をしなかったこと)ようで、19年後の同じ日にまさか彼も殺されるなんて、なんという運命の巡り合わせだろうと思わずにはいられません。

因みに、6月20日は、あの「ジュドポームの誓いの日」でもあるんですね。

「マリー・アントワネットが狭く暗くぬぐいきれないほどの湿気がはびこるコンシェルジュリーの牢獄で、たったひとりぽっちで死の準備をしたことも、フェルゼンには許しがたいことだった」と書かれていて、私も切なすぎて泣けましたT-T。

マリー・アントワネット亡き後、フェルゼンは、彼女の長女、マリー・テレーズとウィーンで会っているんですね。
「ベルサイユのばら」のエピソード編にもその場面は描かれているのですが、言葉は交わしていなかった記憶があります。
ですが、史実では1796年2月19日に、フェルゼンとマリー・テレーズは言葉を交わしているようです。

マリー・アントワネットが死んでからは失意の日々だったけど、その後、生まれ故郷のスウェーデンで、ウプサラ大学学長の他に元帥の地位も得て、政治にも携わるようになります。
そして、国王からスウェーデンの首相になることを提案されるが、フェルゼンは断ります(自分が首相になればフランスとの関係が悪化するから)。

その後、フェルゼン最後の場面は、とても胸に迫るものがあり、胸が締め付けられました。

フェルゼンは暴徒に襲われた時に、ストラ・ニガタン通りにあるレストランへ逃げ込んでいるのですが、逃げ切れず、ここに書くのもはばかれるような最期でした・・・。

本書によると、フェルゼンが殺された時、遺体の首にマリー・アントワネットがプレゼントした時計がかけられていて、その時計には「AとFが彫り込まれていた」と書かれていました。
フェルゼンは、この時計を大事にいつも身に着けていたのでしょう。
この時計の部分の記述は、読んでいて胸が締め付けられましたT-T

フランス革命が勃発してからのフェルゼンは、自分の命を投げうってマリー・アントワネットを助けようとしていた、そして本当に彼女を愛していたんだなと思います。

捕まれば確実に殺されるフランスに舞い戻り、マリー・アントワネットを最後まで助けようとしていた彼のことを思うと切ないです。

昨日と今日にわたってご紹介したこちらの本は、フランス革命やベルサイユのばらやマリー・アントワネットにご興味のある方にはお勧めの本です。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

明日以降は、またアルセーヌ・ルパンの記事に戻るか、ベルサイユのばらの紹介をしていくか、それともルパンとベルばらを交互に書いていくか、まだ思案中です。

また次回以降もお読みいただければ幸いです。


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